へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
様々な祭りをご紹介するWEBサイトはこちらです。
http://maturi.info/

雨の日は

雨で踊りの練習が区民館に変更になった。

参加者も雨天なので少し少ないようだ。



踊りの終わるのを待って8時に囃子の練習が始まるが、

なかなか人が集まらない。

このところ毎日こんな調子だ。

陰々滅々、天候の影響もあって、愚痴もこぼれようというもの。

「こんなで祭りが出来るんだろうか」

気がつけば、毎年同じ言葉が繰り返されている。



うちの町内は空洞化が進む市街にあって世帯数も約120。

若者や子供は当然少なく、小学校の球技大会などでも単独でチームが組めず、数区が合同でやっと混成チームが出来るといったあんばいだ。





でも不思議なことに祭り当日になれば、これだけの参加者が集まってくる。

それは多分、祭りがみんなの楽しみになっているからなのでしょうね。



今日人が来ないのは、中だるみと雨での足止め。

だから明日になればまた状況は変わります。



祭り本番に人が少なければ無理をせず、少ないなりの祭りをやればいい。

そう思えば気も楽だ。

無理に背伸びをすることはない。



祭りを楽しみに人が集まる間は、祭りはなくならない。



それにしても、昔は囃子方は花形で子供や若者の憧れだったはず。

とりあえず囃子を習えば簡単に山車に乗れるという今の風潮は、

簡単に囃子から離れていく原因になってはいないだろうか。



憧れて憧れて囃子を熱心に練習しても、

女は乗れないと言う決まりで何年も乗れなかった女性の

「どれだけ山車に乗りたかったことか。」

という一言がとても重い。



囃子方は憧れでなきゃね。



参考リンク

女性囃子方山車に乗る 前編

女性囃子方山車に乗る 後編




富士山紅葉す!

富士宮口新五合目から宝永山まで歩いてみました。







新五合目少し上の登山道から山頂方面を望む。

この少し上が森林限界です。







宝永火口と山頂方面。

遠足に訪れた小学生たち。







新五合目から山頂方面を望む。

常緑樹と黄葉の織りなす絢は見事です。



11月3日の秋まつりまで10日を切りました。

先日の冠雪もほとんど溶けてしまいましたので、祭り前に一雨欲しいところです。



参考リンク

ふじのみや美図


神田川原にのろしを上げて



= 湧玉神立 x 湧玉琴平 の競り合い =

実は手前で湧玉宮本と湧玉福地立組も平行して競り合いを行っています。

この写真は湧玉宮本の山車の屋根から隣の競り合いを写したものです。



勇壮な競り合いには昔からもめ事も多く、それぞれの町内に伝説となって残っているようです。



この競り合いのあまりのエスカレートに、長期の自粛がなされたこともありましたが、秋まつり青年協議会発足後は祭りを全国に発信する呼び物として積極的に行うようになりました。



秋まつり青年協議会が発足したばかりの昭和62年頃、浅間大社の祭事係で磐穂神田組の大先輩でいらっしゃる加藤長三郎さん(故人)にお聞きした話です。





その昔川東のある町内と川西の町内がお祭りの競り合いでもめることがあり、その場は双方引いたけれどもどうにもおさまらず、川東の町内は殴り込みに行こ うと神田川に集結しました。

しかし相手の町内に行くにはその前に他の町内を通らなければなりません。

神田川の畔で焚き火をしてひたすら交渉をしたけれども、結局 通過の了解が得られず大事には至りませんでした。



この様子を地元の新聞は「神田川原にのろしを上げて」と題して記事にしました。





メディアが話に尾ひれをつけたりあおったりするのは、どうも今に始まったことではないようです。



とはいえ、競り合いには争いがつきものです。

血染めの笛」、「同じ囃子を継ぐ仲間」でもご紹介しましたが、競り合いがエスカレートしてもめ事に発展することが多く、それが競り合いの自粛や祭り休止など、祭りの実施に悪影響を及ぼしました。



秋まつり青年協議会発足当初は事務局として、そんな歴史から競り合いに尻込みする町内を「時間を決めて勝負はつけないんだから」と説得したことが思い起こされます。争うためでなく、賑わいのためにやるんだと。



20年余を経て状況も変わりましたが、最近の競り合いの過熱には危惧を感じます。

挑発や威嚇などが行われるようでは、どこぞのタイトルマッチと変わりありません。



祭りは終わるものです。

来年再び始めるために、今年はきれいさっぱり片づけるという意味もあります。

でも、祭りは永遠に続くと思っていても、人心が離れてしまえば祭りは死にます。

そうならぬように、「祭り」が区民全員の楽しみとなっているかどうかに常に心を配らねばなりません。



かつて山車が売却されたり焼却された時代がありました。

祭りが行われなくなれば山車でさえ無用の長物と化し、処分されてしまえば復興するには気の遠くなる年月や大きな努力が必要です。



無事に続けていくことが、祭りと伝統を守ることにつながります。

富士宮秋まつり祭典実施区



富士山南麓に広がる富士宮市は、緑とバナジウムに富む湧水に恵まれた町です。





富士宮秋まつりの山車や屋台保有区は21区ですが、1区がしばらく前から休止しているので実施しているのは20区になります。







中央の水色の線が神田川で、以東は古くは大宮町、以西は大宮西町でした。

神田川以西には明治中期にはまだ「湧玉」という祭り組しか無く、その後町が発展して行くたびに独立する町内が「湧玉」の囃子を継承する、あるいは「湧玉」の分かれであるといった意味合いで、頭に「湧玉」を冠し「湧玉○○」と名乗りました。それが現在にも伝えられています。

神田川以東には明治中期に磐穂(いわほ)、咲花などがありましたが、市域の発展で磐穂は神田、常磐、浅間、城山、木の花などに分かれました。



西を湧玉、東を磐穂と総称したと言う説がありますが、元々磐穂と別の町内として存在したものもありますので、これについてはさらなる調査が必要でしょう。







山車引き回しの背景には富士山が顔を覗かせます。



参考リンク

富士宮秋まつり   富士宮秋祭りを多くの写真で紹介する公式サイト。

ふじのみや美図   富士宮市を多くの写真で紹介。

富士宮囃子と秋祭り 富士宮囃子保存会の公式サイト。多くの調査報告あり。

千社札(交換札)

千社札には神社仏閣に貼る貼り札と名刺のように交換する交換札があります。



神社仏閣に貼られる千社札は目にされたこともあろうかと思いますが、昔からの伝統に則った千社札には、さすがに風格や重みを感じますね。

ところが一方で、マナーも何もわきまえぬ名前シールが、べたべたと山門や社寺に貼られている様は「鳩の糞」と形容されるように美観を著しく損ねています。



そんなことから以前はシールを作成してネットで通販していたものですが、一切止めました。

その当時のデータのみ自由に使えるように、サイトで公開していることは以前ご紹介しましたね。

 フリー素材「千社札」データ





さて交換札ですが、その昔好事家は浮世絵師に描かせたりと、ずいぶんとお金もかけたようです。

そんな話に強い憧れはあっても、そこまではとても出来ませんので、著作権の消滅した浮世絵を市販のデータ集から読み込み、札にしてみました。

顔料系インクジェットプリンタの表現力は捨てたものでもありません。

なかなか気に入っています。



   



好事家でも出来なかった歌麿や写楽の交換札が、パソコンで気軽に作れるとは便利な世の中になりましたね。

お好きな方は試してみてはいかがでしょう。



でも一つ憶えておいていただきたいことがあります。

「色札貼るべからず」

贅をこらした札は交換するもので、神社仏閣に貼るものではないとのこと。



粋を真似たつもりが鳩の糞にならぬよう、充分お気をつけ下さい。



関連リンク

祭にっぽん

ふじのみや美図

mixiへんぽらい

露店のない祭り

秋まつり実施区以外の富士宮市民の方にとっては秋まつりと言えば境内に 所狭しと立ち並ぶ露店見物なのかもしれません。毎年春と秋に行われる「流鏑馬祭」と「秋季例大祭」は子供達にとってもお祭りのお小遣いを貰い、境内の露店 をあちこちひやかしながら歩き回るのが何よりの楽しみだと言えましょう。









ところがこの露店が一切出なかった事があります。

昭和54年の秋祭りがそれで、殺人事件に端を発し報復等で市民が巻き込まれることがないようにと警察の勧告で全ての露天商が出店を自粛したのです。

山車 の引き回しはそれぞれ行いましたが、境内に露店のない祭りは何ともさびしい物で浅間大社を訪れた人は皆一様にがっかりしておりました。

この年に撮影された教育委員会製作の「富士宮ばやし」という8ミリ映画に、露天商のいない境内に宮参りするそれぞれの町内が写っています。





宮本区ではこのさびしい境内を賑わそうと屋台(57年に山車に改修)を西門石段より曳き入れ、楼門前で参拝しました。



参考リンク

湧玉宮本の祭り


濡れ衣



= 百数十年ぶりに復興された山宮御神幸 =

明治以来途絶えていた神事を浅間大社御鎮座1200年を機に復興しました。





= 鉾立石(ほこたていし) =


浅間大社楼門前の馬場側の石段の真ん中に鎮座しているのが鉾立石(ほこたていし)です。



1200年も昔から江戸時代末期まで行われていた神幸祭で、山宮浅間神社まで御神幸に行く際に、この石に鉾を立てて休んだあとは山宮につくまで鉾を地につけることは許されなかったということから、その名がついたそうです。



ところでこの鉾立石にはセメントで接いだあとがあるのですが、それについて以前区長だった方よりうかがった話です。



ある町内の青年が酔って浅間大社を通りかかった際に、鉾立石を持ち上げられるかどうかという話になり、寄ってたかって持ち上げたそうです。しかしあまりの 重さに耐えかね取り落としてしまい、石は割れてしまいました。

権宮司が区長の所に怒鳴り込んできたのも当然のこと。

いわれのある大事な物を損壊するとはとん でもないことで、元に戻せと迫ったそうです。

しかし割れた物は元に戻るわけもなく困った区長は「元に戻す方法があるのならぜひあなたがやってみて下さ い。」と返答しよけい怒りを買ってしまいました。



ところが、この鉾立石を落として割ったのは実は怒鳴り込まれた町内ではなく隣の町内の青年だったということがその町内の言い伝えからわかりました。

怒鳴り込まれた町内にしてみればとんだ濡れ衣ではありますが、ふだんの青年の無頼のごとき行状から、区長も反論のしようがなかったのでしょう。



結局、割れた石はドリルで穴を開け鉄筋を通してセメントで継ぎ目を埋めました。鉾立石前の石段には今でもその時に出来た傷が残っています。

知らなきゃ損!宝くじ助成金

10月16日に太鼓の披露が行われました。





これは浅間大社正面の大鳥居で財団法人自治総合センターの助成で新調された太鼓セットの披露で、祭典実施区3区と富士宮囃子保存会メンバーが交互に富士宮囃子を披露したものです。







囃子道具の購入にはそれぞれの自治会で資金繰りなど苦労も多いと思います。

今までにも市内各自治会などがこの助成を受け、祭りに使用する囃子道具を揃えてきました。最大で250万円というと、囃子道具で言えば太鼓2セット、枠x2、ファイバーケース2セット分に加え、笛、当たり鉦、バチなどを充分揃えることが出来る金額です。





このシールが示すように宝くじの収益金が各種助成事業に充てられているものです。



詳細は財団法人 自治総合センターのサイトで御覧下さい。



一般コミュニティ助成事業

の「4.                         お祭り、運動会、ピクニックその他コミュニティ行事」に、

「太鼓、御輿、山車、法被、テント、組立式ステージ、各種用具等」とあります。

補助金額は一般コミュニティ助成事業1件につき、100万円から250万円まで(10万円単位)とのことです。



事業実施主体は、市(区)町村、コミュニティ組織(自治会・町内会等)又はコミュニティ組織の連合体とする。

採択にあたっては、できる限りコミュニティ組織を優先するものとする。





ということで自治会や町内会の活動に対して行われる助成です。

富士宮市の場合は市に担当する窓口があり、そこを通して申請するわけですが、すでに10数年先の分まで順番待ちの状態と聞きます。



行政区がいくら資金的に余裕があっても、祭り道具の購入にばかり充てるわけにも行きません。たとえ20年先でも必要な道具が揃えられるなら、申し込まないのはもったいないと思います。



なかなか当たらない宝くじですが、こんな形でも還元されているんですね。

同じ囃子を継ぐ仲間



= 競り合い 富士宮秋まつり 11月3日から5日 =



昭和初期の事。

湧玉御幸が当番町として広く他町を引き回していたときに前後を磐穂の2つの町内に挟まれ、行くも戻るも出来なくなりました。



当時は元々山車がすれ違えないほどの狭い通りですから、どちらが道を譲るかを囃子の競り合いで決めていました。負けた町内の山車は引き下がって道を譲り、かった町内は意気揚々と山車を進めました。

だからこの競り合いで負けないために囃子方は稽古を積んだのです。



前後をふさがれ進退ならぬままの競り合いは圧倒的に不利で、誰しも勝ち目はなく、囃子が立ち往生する物と思いました。

でも意外なことに、進路を塞いだ町内が退いて道を譲ったのです。

じつは、挟 まれたという伝令が西町に飛ぶや、湧玉の他町の囃子方が袢天を脱いで駆けつけ、御幸の囃子方と交代しながら延々と続けたので、挟んだ方の町内が音を上げたということです。



当時の祭り組はまだ同じ囃子を伝えているという連帯感も強かったもののようです。祭り組間での競い合いと協調の好例ではないでしょうか。





このよう に湧玉を親名に名乗るのは同じ「湧玉囃子」を伝えているという名残らしく、当時は他町とはいえ息をそろえて一緒に叩くことも自然に出来た物のよう です。



それぞれの祭り組が確立されて久しいのですが、それゆえに町内毎のお囃子はそれぞれ独特の個性を持つようになりました。

個性が伝えられるというのも 伝承的にはもちろん必要なことですが、同時にその大元が一緒であったということも忘れてはならない事では無いでしょうか。

血染めの笛



= 競り合い 富士宮秋まつり11月3日から5日 =



駿府博(1989)に出演された、根古市流沢田祭り囃子保存会の皆さんに伺った話です。



明治の末頃の話。



沼津市に住んでいた按摩さんでお囃子の名人がいました。根古屋出身なので根古市さんと呼ばれていたその方は強い笛を吹くというので、請われて近隣のお祭りでも笛を吹くことがよくあったそうです。



ある年、大宮(現富士宮市)の秋まつりに請われて笛を吹きに来たそうな。

髭をあたってもらおうと入った床屋は、なんと以前の競り合いでさんざんにうち負かされた相手の笛吹きで、それを恨んだ床屋は卑怯にもかみそりで根古市さんの唇を切り裂いたと言います。



これで笛も吹けず逃げ帰っただろうと思っていた床屋は、多少の後ろめたさは感じながらも山車に乗り、いつものように笛を吹いていました。因縁の競り合い相手の山車が見えたとき、床屋はあっと声を上げへたりこんでしまいました。

なんと切られた唇から血を飛沫かせながらも根古市さんは笛を吹いていたのです。



この時の無理がたたって、唇の傷は大きくあとを残すことになりました。しかしこの話は彼の名を冠した根古市流沢田祭り囃子とともに沼津市沢田に今も伝えられています。



 

= 浅間大社周辺で盛んに行われる競り合いは秋まつりの呼び物です =



参考リンク

富士宮囃子と秋祭り
 こぼれ話より

ふじのみや美図

記事検索
Amazonライブリンク
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ