へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
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屋台暴走す!-見えぬ危険

昭和54年の富士宮秋まつりはかつて無いさびしい祭りだった。

ある事件から露天商が出店を自粛すると言うことになり、

いつもなら境内を埋め尽くすはずの多くの露店が、境内から消えたのだ。



この写真もただの記念写真に見えるかも知れないが、じつはかなりの無茶をしている。





通常なら露店が建ち並ぶ浅間大社境内の楼門前になど、屋台を引き入れることは出来ない。

露店が一つもないということから急遽浅間大社の許可を得て引き入れることが決まった。





この西門の鳥居をくぐり、石段を下りなければ境内の馬場には入れない。

屋台の後に綱をつけ、前の梃子方がブレーキをかけながら下ろすことになった。

暴走や落下、転倒を恐れるあまり、後の綱を必死に引っ張るのでなかなか進めず、

どうにか馬場に下りたのは20分ぐらいも経っていただろうか。

何とか事故無く、境内馬場に下り立つことが出来た。



そして楼門前正面参道脇に屋台をつけて、冒頭の記念写真を撮影したものだ。



問題はこの後である。



正面参道を通り大鳥居までくぐると言うことで、屋台を参道に進めた。





ひょうたん池の太鼓橋は傾斜もそんなにはきつくなく、この程度ならと多寡をくくっていたのだろうか。

橋の中央を通り過ぎた時、屋台が暴走した。

屋台の中で鉦を叩いていた私は、すんでのところで前方に放り出されるところだったが梁に頭をぶつけ、きんど(締太鼓)打ちの背中の上に落ちた。

屋台は石段を3段落ちてやっと止まった。



こんなものだろうか。

目に見える明らかな危険には誰しも慎重に対応するが、

うっかり見落としたもので痛い目を見る。



この事故の結果、私は幸い頭にこぶを作ったくらいですんだ。

私の持っていた鉦がきんど打ちに当たり、彼も頭にこぶを作った。

屋台はあちこちゆるんだだろうが特に支障はなく、

この後も何事もなかったかのように引き回された。

2-3段くらいの石段は何カ所かあったが、慎重にクリアー。







仕上げはこの大鳥居をくぐり、通り端まで行ってUターン。

鳥居向こうの灯籠の手前を左に抜け自町に帰った。



石段とは言え車輪が当たったので、大鳥居下の御影石の角が少し欠けていた。

後日通りかかったら、かけらが落ち居ていたので拾ってお守りに今でも大事に持っている。



一昨年の鉦叩き落下事故といい、この暴走といい、一つ間違えば人命に関わる事故だ。奇跡的に軽く済んだのは幸運だったが、やっぱり浅間大社正面と言うこともあり、浅間様が守って下さったのかとも思う。



こういった経験を積むことで無茶や危険なことは避けるようになるものだが、起きて初めて気付く危険の種は、じつにあらゆる所にあるものだ。

うるさがられても警鐘を鳴らすのが私の務めだと思う。



今年の祭りが、事故無く無事に終わるよう祈ります。



参考リンク

湧玉宮本の祭り

ふじのみや美図

台風の翌朝

昨夜の台風は富士山に雪を降らせました。

大気も澄み、絶好の撮影日和。





富士宮市中央図書館から見た富士山。

空気がこんなに澄むのは台風一過だからこそ。

山肌の黄葉までがくっきりと見えました。





ここが祭りの会所になる区民館。

右にあるのが山車蔵だ。

この後10時から会所の門と宣伝提灯の掲示枠などを設置した。



富士山の黄葉もこんな日に撮れたら最高なのにな。

台風一過月明かりの富士山

午後7時からの踊りの練習の時は強い吹き降り。

それが8時に踊りの練習が終わった時には嘘のように風も止み、雨も上がった。



囃子の練習と祭りの手順確認などを終え帰宅は午前0時。

月明かりに富士山の姿が白く見えたので、

雲か雪かと悩みながらも白尾山まで出かけることにした。





山頂部ははじめ雲に覆われていたが、撮りすすむうちに雲が押しやられ、

雪を戴いた山頂が姿を現し、台風一過の透明な大気と月明かりに富士山は美しい姿を見せてくれた。



昨年暮れから月の明るい夜には富士山を撮るためにあちこち徘徊していたが、

夏場は雪もなく出控えていた。



やっぱり雪あってこその富士山だと実感した次第。

このままなんとか祭りまで残って欲しいものだ。



参考リンク

ふじのみや美図

雨の日は

雨で踊りの練習が区民館に変更になった。

参加者も雨天なので少し少ないようだ。



踊りの終わるのを待って8時に囃子の練習が始まるが、

なかなか人が集まらない。

このところ毎日こんな調子だ。

陰々滅々、天候の影響もあって、愚痴もこぼれようというもの。

「こんなで祭りが出来るんだろうか」

気がつけば、毎年同じ言葉が繰り返されている。



うちの町内は空洞化が進む市街にあって世帯数も約120。

若者や子供は当然少なく、小学校の球技大会などでも単独でチームが組めず、数区が合同でやっと混成チームが出来るといったあんばいだ。





でも不思議なことに祭り当日になれば、これだけの参加者が集まってくる。

それは多分、祭りがみんなの楽しみになっているからなのでしょうね。



今日人が来ないのは、中だるみと雨での足止め。

だから明日になればまた状況は変わります。



祭り本番に人が少なければ無理をせず、少ないなりの祭りをやればいい。

そう思えば気も楽だ。

無理に背伸びをすることはない。



祭りを楽しみに人が集まる間は、祭りはなくならない。



それにしても、昔は囃子方は花形で子供や若者の憧れだったはず。

とりあえず囃子を習えば簡単に山車に乗れるという今の風潮は、

簡単に囃子から離れていく原因になってはいないだろうか。



憧れて憧れて囃子を熱心に練習しても、

女は乗れないと言う決まりで何年も乗れなかった女性の

「どれだけ山車に乗りたかったことか。」

という一言がとても重い。



囃子方は憧れでなきゃね。



参考リンク

女性囃子方山車に乗る 前編

女性囃子方山車に乗る 後編




富士山紅葉す!

富士宮口新五合目から宝永山まで歩いてみました。







新五合目少し上の登山道から山頂方面を望む。

この少し上が森林限界です。







宝永火口と山頂方面。

遠足に訪れた小学生たち。







新五合目から山頂方面を望む。

常緑樹と黄葉の織りなす絢は見事です。



11月3日の秋まつりまで10日を切りました。

先日の冠雪もほとんど溶けてしまいましたので、祭り前に一雨欲しいところです。



参考リンク

ふじのみや美図


神田川原にのろしを上げて



= 湧玉神立 x 湧玉琴平 の競り合い =

実は手前で湧玉宮本と湧玉福地立組も平行して競り合いを行っています。

この写真は湧玉宮本の山車の屋根から隣の競り合いを写したものです。



勇壮な競り合いには昔からもめ事も多く、それぞれの町内に伝説となって残っているようです。



この競り合いのあまりのエスカレートに、長期の自粛がなされたこともありましたが、秋まつり青年協議会発足後は祭りを全国に発信する呼び物として積極的に行うようになりました。



秋まつり青年協議会が発足したばかりの昭和62年頃、浅間大社の祭事係で磐穂神田組の大先輩でいらっしゃる加藤長三郎さん(故人)にお聞きした話です。





その昔川東のある町内と川西の町内がお祭りの競り合いでもめることがあり、その場は双方引いたけれどもどうにもおさまらず、川東の町内は殴り込みに行こ うと神田川に集結しました。

しかし相手の町内に行くにはその前に他の町内を通らなければなりません。

神田川の畔で焚き火をしてひたすら交渉をしたけれども、結局 通過の了解が得られず大事には至りませんでした。



この様子を地元の新聞は「神田川原にのろしを上げて」と題して記事にしました。





メディアが話に尾ひれをつけたりあおったりするのは、どうも今に始まったことではないようです。



とはいえ、競り合いには争いがつきものです。

血染めの笛」、「同じ囃子を継ぐ仲間」でもご紹介しましたが、競り合いがエスカレートしてもめ事に発展することが多く、それが競り合いの自粛や祭り休止など、祭りの実施に悪影響を及ぼしました。



秋まつり青年協議会発足当初は事務局として、そんな歴史から競り合いに尻込みする町内を「時間を決めて勝負はつけないんだから」と説得したことが思い起こされます。争うためでなく、賑わいのためにやるんだと。



20年余を経て状況も変わりましたが、最近の競り合いの過熱には危惧を感じます。

挑発や威嚇などが行われるようでは、どこぞのタイトルマッチと変わりありません。



祭りは終わるものです。

来年再び始めるために、今年はきれいさっぱり片づけるという意味もあります。

でも、祭りは永遠に続くと思っていても、人心が離れてしまえば祭りは死にます。

そうならぬように、「祭り」が区民全員の楽しみとなっているかどうかに常に心を配らねばなりません。



かつて山車が売却されたり焼却された時代がありました。

祭りが行われなくなれば山車でさえ無用の長物と化し、処分されてしまえば復興するには気の遠くなる年月や大きな努力が必要です。



無事に続けていくことが、祭りと伝統を守ることにつながります。

富士宮秋まつり祭典実施区



富士山南麓に広がる富士宮市は、緑とバナジウムに富む湧水に恵まれた町です。





富士宮秋まつりの山車や屋台保有区は21区ですが、1区がしばらく前から休止しているので実施しているのは20区になります。







中央の水色の線が神田川で、以東は古くは大宮町、以西は大宮西町でした。

神田川以西には明治中期にはまだ「湧玉」という祭り組しか無く、その後町が発展して行くたびに独立する町内が「湧玉」の囃子を継承する、あるいは「湧玉」の分かれであるといった意味合いで、頭に「湧玉」を冠し「湧玉○○」と名乗りました。それが現在にも伝えられています。

神田川以東には明治中期に磐穂(いわほ)、咲花などがありましたが、市域の発展で磐穂は神田、常磐、浅間、城山、木の花などに分かれました。



西を湧玉、東を磐穂と総称したと言う説がありますが、元々磐穂と別の町内として存在したものもありますので、これについてはさらなる調査が必要でしょう。







山車引き回しの背景には富士山が顔を覗かせます。



参考リンク

富士宮秋まつり   富士宮秋祭りを多くの写真で紹介する公式サイト。

ふじのみや美図   富士宮市を多くの写真で紹介。

富士宮囃子と秋祭り 富士宮囃子保存会の公式サイト。多くの調査報告あり。

千社札(交換札)

千社札には神社仏閣に貼る貼り札と名刺のように交換する交換札があります。



神社仏閣に貼られる千社札は目にされたこともあろうかと思いますが、昔からの伝統に則った千社札には、さすがに風格や重みを感じますね。

ところが一方で、マナーも何もわきまえぬ名前シールが、べたべたと山門や社寺に貼られている様は「鳩の糞」と形容されるように美観を著しく損ねています。



そんなことから以前はシールを作成してネットで通販していたものですが、一切止めました。

その当時のデータのみ自由に使えるように、サイトで公開していることは以前ご紹介しましたね。

 フリー素材「千社札」データ





さて交換札ですが、その昔好事家は浮世絵師に描かせたりと、ずいぶんとお金もかけたようです。

そんな話に強い憧れはあっても、そこまではとても出来ませんので、著作権の消滅した浮世絵を市販のデータ集から読み込み、札にしてみました。

顔料系インクジェットプリンタの表現力は捨てたものでもありません。

なかなか気に入っています。



   



好事家でも出来なかった歌麿や写楽の交換札が、パソコンで気軽に作れるとは便利な世の中になりましたね。

お好きな方は試してみてはいかがでしょう。



でも一つ憶えておいていただきたいことがあります。

「色札貼るべからず」

贅をこらした札は交換するもので、神社仏閣に貼るものではないとのこと。



粋を真似たつもりが鳩の糞にならぬよう、充分お気をつけ下さい。



関連リンク

祭にっぽん

ふじのみや美図

mixiへんぽらい

露店のない祭り

秋まつり実施区以外の富士宮市民の方にとっては秋まつりと言えば境内に 所狭しと立ち並ぶ露店見物なのかもしれません。毎年春と秋に行われる「流鏑馬祭」と「秋季例大祭」は子供達にとってもお祭りのお小遣いを貰い、境内の露店 をあちこちひやかしながら歩き回るのが何よりの楽しみだと言えましょう。









ところがこの露店が一切出なかった事があります。

昭和54年の秋祭りがそれで、殺人事件に端を発し報復等で市民が巻き込まれることがないようにと警察の勧告で全ての露天商が出店を自粛したのです。

山車 の引き回しはそれぞれ行いましたが、境内に露店のない祭りは何ともさびしい物で浅間大社を訪れた人は皆一様にがっかりしておりました。

この年に撮影された教育委員会製作の「富士宮ばやし」という8ミリ映画に、露天商のいない境内に宮参りするそれぞれの町内が写っています。





宮本区ではこのさびしい境内を賑わそうと屋台(57年に山車に改修)を西門石段より曳き入れ、楼門前で参拝しました。



参考リンク

湧玉宮本の祭り


濡れ衣



= 百数十年ぶりに復興された山宮御神幸 =

明治以来途絶えていた神事を浅間大社御鎮座1200年を機に復興しました。





= 鉾立石(ほこたていし) =


浅間大社楼門前の馬場側の石段の真ん中に鎮座しているのが鉾立石(ほこたていし)です。



1200年も昔から江戸時代末期まで行われていた神幸祭で、山宮浅間神社まで御神幸に行く際に、この石に鉾を立てて休んだあとは山宮につくまで鉾を地につけることは許されなかったということから、その名がついたそうです。



ところでこの鉾立石にはセメントで接いだあとがあるのですが、それについて以前区長だった方よりうかがった話です。



ある町内の青年が酔って浅間大社を通りかかった際に、鉾立石を持ち上げられるかどうかという話になり、寄ってたかって持ち上げたそうです。しかしあまりの 重さに耐えかね取り落としてしまい、石は割れてしまいました。

権宮司が区長の所に怒鳴り込んできたのも当然のこと。

いわれのある大事な物を損壊するとはとん でもないことで、元に戻せと迫ったそうです。

しかし割れた物は元に戻るわけもなく困った区長は「元に戻す方法があるのならぜひあなたがやってみて下さ い。」と返答しよけい怒りを買ってしまいました。



ところが、この鉾立石を落として割ったのは実は怒鳴り込まれた町内ではなく隣の町内の青年だったということがその町内の言い伝えからわかりました。

怒鳴り込まれた町内にしてみればとんだ濡れ衣ではありますが、ふだんの青年の無頼のごとき行状から、区長も反論のしようがなかったのでしょう。



結局、割れた石はドリルで穴を開け鉄筋を通してセメントで継ぎ目を埋めました。鉾立石前の石段には今でもその時に出来た傷が残っています。

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