意を決し、初めて女子を山車に乗せたその夜。

いやが上にも高まる緊張とは裏腹に、打ち上げまでは不思議なほど和気藹々で順調に進みました。

やがて散会となり、年寄り、後見と参加者を皆送り出して緊張の糸がほっと緩んだその時でした。

「何だとこの小僧!」と言う怒声が響き渡りました。



騒ぎが起きたら女の子は裏口から逃がし、近くに用意した車に匿う。

とにかくそれだけは決めてありました。



玄関から走り出ると、梃子棒を振り上げた後見が羽交い締めにされ、なだめられているところ。後ろ手に戸を閉め、ここは通すまいと身構えると「この野郎!仁 王立ちなんかしやがって」との怒声が飛んできましたが、他の後見たちに引きずられるように遠ざかっていきました。梃子棒を振るわれた青年に怪我を聞くと、 かすったぐらいで済んだとのこと。



騒ぎを聞きつけて顧問がやって来ました。

見れば祭り衣裳のままです。

こんな事態が起こることを見越して家で待機されていたようです。

「先生、俺は悔しくてならない」

先ほどの後見に梃子棒を手渡した後見が言いました。



他所の町内の人間に宮本の山車は女を乗せるのかとからかわれ、それが悔しいと涙をぽろぽろ流して訴えています。



その人の囃子方時代には山車は屋台に作り替えられていたので、山車に乗った経験はない。現役の囃子方には遠慮するにしても、自分も乗れない山車に女が乗るのは到底納得できない。おまけにそれを他町の人間に言われたからなおさらのこと。

巡る思いはいろいろあったのでしょう。



顧問は「女を乗せて何が悪い」「言った奴を連れてこい。俺がじっくり教えてやる。」と懇々と諭してくれましたが、結局話はかみ合わず、最後には後見もあきらめて一礼をして去っていきました。



この後町内では女の囃子方が山車に乗るのは公認され、瀕死だった祭りも何とか盛り返しました。

女子供を安心して祭りに出すことが出来ず、青年層にそっぽを向かれるような無頼を気取った祭りでは、町内からも賛同が得られずに、たとえ屋台を山車に作り替えたところで、やがては滅びるしかありません。



ここが大きな分かれ目だったと思います。



事態が限界まで閉塞してしまうと、静かに終末を待つか、風穴を開けて打開を図るかのどちらかです。



けっして伝統を軽んじたわけではありません。

あれは先行きに希望を見いだすための大きな決断でした。



= 昔の屋台の頃(昭和54年) =



囃子方を乗せても下に5-6人居れば昔の屋台は軽量でしたから押して歩けました。

暴力団抗争で露店が出なかった54年には西門の階段を下り、楼門前の馬場で記念撮影までしています。



でも山車ともなるとそうは行きません。区を上げての実施体制への移行がどうしても必要でしたが、体制がやっと整ったのはこの数年後でした。



山車に女性を乗せたのは間違いではなかったと自負していますが、今現在、男の囃子方がなかなか残らないのが最大の悩みです。



今では女子対女子で競り合いが行われることも多くなりましたが、20年前のあの頃には考えられなかったことです。



関連サイト

富士宮囃子と秋祭り

湧玉宮本の祭り