= 競り合い 富士宮秋まつり 11月3日から5日 =



昭和初期の事。

湧玉御幸が当番町として広く他町を引き回していたときに前後を磐穂の2つの町内に挟まれ、行くも戻るも出来なくなりました。



当時は元々山車がすれ違えないほどの狭い通りですから、どちらが道を譲るかを囃子の競り合いで決めていました。負けた町内の山車は引き下がって道を譲り、かった町内は意気揚々と山車を進めました。

だからこの競り合いで負けないために囃子方は稽古を積んだのです。



前後をふさがれ進退ならぬままの競り合いは圧倒的に不利で、誰しも勝ち目はなく、囃子が立ち往生する物と思いました。

でも意外なことに、進路を塞いだ町内が退いて道を譲ったのです。

じつは、挟 まれたという伝令が西町に飛ぶや、湧玉の他町の囃子方が袢天を脱いで駆けつけ、御幸の囃子方と交代しながら延々と続けたので、挟んだ方の町内が音を上げたということです。



当時の祭り組はまだ同じ囃子を伝えているという連帯感も強かったもののようです。祭り組間での競い合いと協調の好例ではないでしょうか。





このよう に湧玉を親名に名乗るのは同じ「湧玉囃子」を伝えているという名残らしく、当時は他町とはいえ息をそろえて一緒に叩くことも自然に出来た物のよう です。



それぞれの祭り組が確立されて久しいのですが、それゆえに町内毎のお囃子はそれぞれ独特の個性を持つようになりました。

個性が伝えられるというのも 伝承的にはもちろん必要なことですが、同時にその大元が一緒であったということも忘れてはならない事では無いでしょうか。