「やめるんだ、絶対!」

祭りが終わったら青年長という大役が終わる。

責任を果たしたら後は後進に託し、すべてから手を引こう。そう思っていた。



30歳が定年の青年団だが、現役はたったの3名。2人が出先の仕事なので、準備から片づけまでの事務仕事や会計はなんでも一人でやらなければならなかった。



祭りの当日に、何も準備が出来ていないという夢にうなされたのが9月。それからは本業そっちのけで祭りの準備にあたった。祭りの当日は成年後見という青年団OBが出てくれるので、それなりに賑やかになるものだ。だが、せっかく建てた運行計画は無視され、声の大きいものの指示で山車は好き勝手に進められた。当時は自町内主体の運行であったから、あまり対外的な問題にはならなかったが、これはけっこう辛かった。



当時は引き回しが終わると集まった祝儀を持って、キャバレーに繰り込むなど派手に散財していたものだった。酒も飲めない人間にはそれが辛く、酔いつぶれたふりをして、そのまま会所の泊まり番をした。こたつで寝転びながら広告提灯のお願いで回った時に言われた言葉を思い出した。

「青年だけが良い思いをしている祭りじゃないか。広告も祝儀も出す必要は無いぞ。」

現役青年はわずかに3名で、酒もろくに飲めない青年長だ。私に対する非難でないのは判る。でも、「後見」もひっくるめて「青年」と見られている。

青年(後見)だけが楽しむ祭りで、区民にそっぽを向かれるような祭りなら、本来の祭りの意義は失われる。仕事も苦情も一手に引き受けたのでは、嫌になるのも無理はない。歴代青年長の祭りへの出が悪いのもそんなところだったのだろうか。



「青年長を終えて、次の受け手がなかったら青年団を解散しよう。」

すっかりそのつもりだった。



そんな思いが一瞬にして消えたのが、会所前での休憩の時だった。

よちよち歩きで踊りの輪にも加われない小さな女の子が、初めて着せて貰った祭り衣装で、嬉しそうに踊りの真似をして見せたのだ。



その笑顔で目から鱗が落ちた。

この子らのためになら、祭りも続けられる。



それが転機になった。

青年の数が少ないのは今も変わらないが、二十数年経った今、屋台は山車に復元され、祭りは今も続いている。



手が足りなくたって、子供らにお囃子を教えて、町内をのんびり回るぐらいならなんとかなる。

どんな形になろうとも、祭りは続けていくつもりだ。



参考リンク

湧玉宮本の祭り 踊り