「あの、てっちゃんさんてなんて呼べばいいんですか?」
遠慮がちに香代が聞いた。
「そうだな。苗字で呼んでもこの辺では『佐野さん』は多すぎるから、てっちゃんでいいんじゃない。」
現に、店の向かいも隣も「佐野さん」だ。人口の1割が佐野姓だと言うから、人混みで「佐野さん」と呼んだらいっぺんに何人もが振り返る事だろう。
「それでいいよ。昔からそう呼ばれてるから。」
香代にとってのてっちゃんは実に興味深い存在だ。 てっちゃんが東京での暮らしを語ることはなかなか無いからあえて詮索はしないので、てっちゃんも隠すわけでは無いが話す機会が無い。謎めいたなかなか渋い爺さんが、ちょっと気になる様子だ。
マスターは思う。
てっちゃんが母親が亡くなった後東京に出て行ったきっかけは、祭りでのあの揉め事だったろう。 必死で止めようとしたけれど止められず、けが人が出てその後数年間祭りが休止されてしまった。
笛吹きとしてのデビュー目前での休止はつらい。おまけに唯一の肉親との死別が追い打ちをかけたのだろう。 笛の師匠だったマスターの父親がとても悔しがったのを憶えている。
でも帰ってきたきっかけは、たぶん還暦の同窓会だった。
幼なじみ3人が顔を合わせるのもあの七回忌での帰省以来だった。
「28年ぶりか?」
「そうだな。」
順調に子供が出来ればそろそろ孫がいてもおかしくない歳だが、とうとう子供は授からなかった。 先に結婚していた弟の次男をゆくゆくは養子に迎えることにして、小さな頃から家の行き来をさせている。 甥の祭り好きはどうやら祖父譲りらしい。
てっちゃんといえばあのまま独身を通している。
東京暮らしも郷里で暮らした25年を超えた。若い時の大工修行が思いのほか役に立ち、工務店で現場監督として社長からの信頼を勝ち取り、職人達からの人望も厚く下町の安アパートでの一人暮らしも、馴れれば捨てた物でも無い。
でも社長が亡くなり工務店も息子の代になると、職人に人望のあるてっちゃんは煙たがられるようになった。 小さな事務所を借りて職人のネットワークを活かし、工務店を始めたのが2年前。 遅れて合流した現場監督の後輩のおかげで多少の自由もきくようになり、還暦同窓会への誘いにも出席できた。
しかし最近飲み仲間が孤独死したのが、気ままなはずの一人暮らしに影を落としている。
「行きつけの飲み屋に無断欠勤したら覗いてもらうよう、合い鍵を渡してあるんだ。でも、お寺さんだけは事前に手配しておかなきゃならんかなって。」
それでお寺さんへの相談がてら、祭りに合わせての帰郷となった。
祭りの喧噪も囃子の音も消え、人が退き始めた境内を抜けると目抜き通りから駅前まで歩いてみた。
郷里を離れて35年。この間に法事で1-2回は訪れたが、その時は用件に追われ改めて町を眺めることもなかった。
昔暮らした頃の記憶とは町並みはすっかり変わってしまったが、看板の名を見れば昔からの店が変わらずに営業を続けているのがわかる。 昔何度も通った居酒屋に立ち寄り、茹で落花生をつまみに一杯引っかける。代替わりして当時初老だった親父さんの姿はなく、息子と思われるどこか面影が似ている店主が、小気味よく応対している。
ちょっとばかり良い気分で神田川沿いを浅間大社に戻ってきた。
神田橋にさしかかると、夜も更け人通りも絶えた大通りに不審な一団を見つけた。
袢纏を脱いだのは町名を隠すためか。おまけに梃子棒まで持参とはただ事ではない。 いきり立っている若者が梃子棒を放そうとしない。仲間がなだめようとしているようだが、頑として受け付けない。
これは殴り込みだ。
大事にならぬように、何とかしなけりゃならん。
一団はどうやら交番前を通るのを嫌っているようで、てんでに川上を指さしている。 てっちゃんは下駄を脱ぐと手に持ち、境内の露店の間を駆け抜け御手洗橋に先回りした。
境内に立ち並ぶ露店の間を下駄を手に駆け抜ける姿を見れば、誰しもただならぬ空気を感じる。
「いた!てっちゃんだ。」
その姿を追ったのは、幼なじみのまあちゃんとそのかみさんのなっちゃんの二人だった。
姿を追って御手洗橋に着くと、てっちゃんは足の砂をはらい下駄を履き息を整えていたが、不敵にニヤッと笑ったのをマスターは見逃さなかった。 そしててっちゃんは素知らぬ顔で橋の欄干にもたれ川を見ていると思ったら、しばらくしてなんだか危険な雰囲気を漂わせた一団がやって来た。
思いのほか時間がかかったなと思いながらてっちゃんが声をかける。
「ちょっと待ちな!」
橋を渡ろうという一団の前に、立ちはだかった。
明らかな喧嘩支度は夜目にも判る。
「どうするんだろう。」
奈津子が心配そうに言った。
さっきの笑みは何か策でもあるのかと見たが、通せんぼしたのは良いが多勢に無勢だ。この年寄り一人で、かなうわけもない。
「許可無く他区に立ち入る事はご遠慮願いたい。」
一同顔を見合わせた。当惑の色は隠せない。
梃子棒を持った男が焦れてドンと橋を突いた。
てっちゃんはぱっと飛び退くと下駄を脱ぎ、半身に構えて手に履いた。
「やる気かい?」
「無理だよ、お巡りさんを呼んでくる。」
という奈津子を止め、様子を伺うことにした。
梃子棒男を押しとどめ、年長と見える男が前に出る。
心なし微笑んでいるようだ。
「どうぞ履き物をお履き下さい。」
そういうと目くばせをした。
ばかに時間がかかると思ったら、梃子棒男をなだめながらここまで来たためらしい。たしかに誰だって、梃子棒持っての殴り込みを黙って許すわけがない。
ゆっくりと履き物を履き直した。