いよいよ富士宮まつりが近づいてきました。
すでにお囃子の練習などを始めている町内もあるようですが、10月の声を聴くと一斉にまつりモードに突入し準備が進みます。
富士宮まつりは市街20の行政区が参加して、毎年11月3日から5日まで実施されています。
市制施行を記念して5年ごとに大祭りを行い、その年には例年に増して市街を広く引き回します。

昔当番制を敷いた頃、当番でない町内はささやかに自町内を引き回し、当番町になった時には衣裳を新調するなどして盛大に町を広範囲に引き回したそうです。
昭和初期に私の町内が当番町として欠畑まで行った時には、日が暮れて山車をその町内に預け参加者は道綱につかまって帰ったと言います。預けられた町内の若者は寝ずの番をしたと言いますから、どちらも大変だったでしょうね。

昔の欠畑は今は祭りを休止している日の出区で、その一つ手前になるのが瑞穂区。
湧玉宮本はその瑞穂区を平成4年に訪問しています。
道路が舗装され移動にかかる時間はかなり軽減されましたので、昔のように日が暮れて山車を預けることも無くなりました。でもやっぱり距離はあり坂道もあります。この大遠征は今でもかなりの決心をしないと出来ません。

富士宮市役所竣工が平成3年(1991年)11月1日だから、前回の訪問時には出来ていたんですね。
この日大きなお腹でついて歩いたひろみさんは翌日出産し、生まれた子供はもう大学生になっています。20年という歳月をつくづく感じます。

この平成24年の20年ぶりの訪問は、快晴の好天に恵まれました。

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咲花会所前を通過する我が町内です。
その先の瑞穂区が訪問先で、すでにこの時には市役所東の通りに瑞穂区は山車を止め待っていてくれました。


先ず会所を訪問し、お囃子と踊りを披露した後、


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我が町内も瑞穂の山車が待つ通りに山車を進め、競り合いを行い旧交を温めました。

じつは、この咲花会所を通り過ぎた頃、頭上から写真を撮られていたのです。
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(Yahoo!地図よりキャプチャーしたもの)

この写真に気付いたのは平成26年3月で、Yahoo!地図で浅間大社を表示させ写真モードにした時でした。

それがが平成24年11月4日に撮られたものと判ったのは、まず境内の露店です。
浅間大社境内に露店が出るのは5月の流鏑馬祭と11月の秋季例祭ですが、馬場の柵が無いから11月の秋季例祭と判ります。浅間大社境内拝殿前東西の石畳は平成24年完成ですからそれ以降。我が町内の正午前後の山車運行で11月3日なら居るはずのところに山車は無く、5日なら会所の片付けで人が出ているはずですがそれも無く4日に絞られます。24年以降で4日が好天だったのはまさに24年でした。
つまり、この航空写真が撮られたのは平成24年(2012年)11月4日に他なりません。

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浅間大社を検索して航空写真モードで見たもの。

この撮影日当てをfacebookグループ「富士宮まつり倶楽部」で投げかけた所、河合君が次のように推理してくれました。
「身延線が高架済み、高架下の亀屋の横に出る道、鳥居の前の道がない、イオンの西に整形外科が、野中のファミマがまだないので、24年あたりでしょうか。市立病院駐車場に車がないので休日かな。咲花に仮山車小屋があるので秋宮、平等寺前と宮信東町店あたりに隊列があるので、どちらかは咲花以外かな。だとすると3よりは4日あたりでしょうか。24年の4日は振り替え休日ですし、というわけで24.11.4と思います。」

やはり同じ答でした。

宮本遠征

関連するものの位置を赤枠で示します。
左の四角が咲花会所、その右の楕円が湧玉宮本の山車と一行、右の楕円は待機する瑞穂の山車です。
まさに1枚目の写真の直後ですね。

ちなみに写真のデータで見ると咲花会所前通過が2012/11/04, 11:44:07となっていますので、航空写真の撮られたのはその少し後の11:45頃かと思われます。

最近2億5,000万画素という高解像度カメラの話題を目にしました。
撮影場所から約18km先を飛行する飛行機の機体文字を識別出来たと言います。
これがいかほどのものかは、さすがに実例を見なければ判りません。
でも静止衛星から地上の人物が識別出来るほどの高解像度カメラが出来たなら、すごいことです。
それによって犯罪やアリバイが、証明されることもあるかも知れません。

そうなれば、お天道様の下で胸張って生きているものには強い味方です。
都合の悪いものも居るはずで、とりあえず理屈をつけプライバシー保護を叫ぶのでしょうね。
いつだって誰かに見られているんだと、私はお天道様を避けるような生き方はしないつもり。
「お天道様はお見通し」
これを信じて生きて行きます。

技術の進歩はめまぐるしいものがありますから、お天道様の眼がいつも空から見ているという日常は、そんなに遠くは無いように思います。