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人手の必要な設営は会所の門と献灯の提灯枠をセットしたので、一安心。
あとは小人数でもぼちぼちと進めていけば、充分間に合います。

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山車の飾り付けは囃子方の担当で、放送設備も山車に着いたので各種の幕をつければオッケー。


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祭りが近づくと、囃子の練習も仕上げ段階。室内から山車蔵に移ります。

今日は最終の実行委員会。
会合を終え、祭りの放送担当と話していて今年が宮本区の祭りにとってどんな年なのかを探ってました。年表を見ながら話題性のある事柄を探していたら、今年が山車を建造してちょうど100年だと言うことに気付きました。

我が町内の祭り組織「湧玉宮本」の前身は、社人町(現西門通り)・福住町(現大月線の一部)という地域で構成された「湧玉御幸」でした。この「湧玉御幸」の記念写真が残っています。
大正4年御幸祭り

大正4年(1915)の御大典にこの山車が建造されました。今からちょうど100年前です。
山車の飾り物は諫鼓鶏(かんこどり)。
中国の伝説に由来するもので、天下泰平の象徴とされます。
江戸時代に天下祭りと呼ばれた神田祭において、氏子町内が山車を江戸城内にまで曳き入れ将軍の上覧を賜りました。その1番町大伝馬町がこの諫鼓鶏を山車に乗せたのにちなみ、浅間大社と結びつきの強いお膝元町内「社人町」としてこの諫鼓鶏を選んだものと思われます。

その後の祭りは残念ながら写真が見つからず確かな曳き回しの記録は乏しいのですが、
保険契約書w640

昭和19年の山車・小屋の保険証券から、この頃はまだ山車だったことがうかがえます。


昭和27年

昭和27年撮影と言われる記念写真です。山車は戦後、屋台に姿を変えていました。
山車を分解し、足回りの上に新たに柱を組み上げ屋台に改造したものです。

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昭和54年に山車を浅間大社馬場に曳き入れた際の記念写真です。

昭和57年の市制施行40周年大祭りに山車を復元するまで、この屋台が曳き回しに使用されていました。


宮本山車

一時屋台に姿を変えたとは言え土台となる足回りは継続使用されていましたので、この山車が100年の宮本の祭り歴史を見てきた生き証人だと言えましょう。

大事に使い、後世まで残してゆきたいものです。