へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

伝説

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
様々な祭りをご紹介するWEBサイトはこちらです。
http://maturi.info/

白い蛇はいずこ

梅雨明けというと思い出すのは3年前のこと。


梅雨が明けたというその日に浅間大社境内を歩いたとき、湧玉池のほとりで涼んでいた人たちが口々に話してくれた。


 


白い蛇が湧玉池を泳いで横切り、森に消えていったというのだ。


 


 



梅雨明けの陽光きらめく湧玉池だ。


この水面を白い蛇が泳いで渡ったという。


それは幻想的な光景だったろう。


 


それで白い蛇のことを、浅間大社の神主さんに聞いてみた。


白い蛇そのものの情報は得られなかった物の、参集所前の島などで大きな蛇の抜け殻を見ることはよくあるとのこと。


 



そして翌年のこと。


浅間大社青年会の、創立35周年記念式典が参集所で行われたときだ。


式典を終え記念講演に移る際に会場設営のため小休止があったので、窓から湧玉池を見ていたら蛇が池を泳いでいるのを発見した。悠々と池を泳いで北側の森に消えて いった。


対岸寄りで逆行気味。蛇行し波を立てて泳ぐのは遠目にも見えたが、白蛇かどうかまでは判らなかった。


 


懇親会などで話をしてみたら、白蛇の目撃談を聞くことができた。


7-8年前の青年会総会の日に湧玉池の石垣で白蛇を見たのだそうだ。


 


 



それから池に来るたびに白蛇はいないかと探すようになった。


ある日子供達が蛇を見つけ騒いでいたので駆けつけると、すでに石積みの隙間に逃げ込んだ後だった。


 


後日覗いたら顔を出していたので、そっと近寄って 撮影した。


アオダイショウだろうか、残念ながら白蛇ではなかった。


 


とはいえ、池に接する森は広大で何か居てもおかしくはない。


いつの日か白蛇に出会う日があるかもしれない。


 


そんな日を楽しみに待っている。


 


 


参考


夏の終わり


湧玉池と白蛇


へんぽらいネット


月夜の富士山独り占め

月の明るい夜、証成寺の狸ならずとも浮かれ出たくなるもの。


特に月明かりで見る幽玄の富士山は地元ならではの光景だろう。


 



水面に映る月明かりの富士山をと思い立ち、田貫湖に出掛けた。


 



月明かりで星の数は今ひとつ。


 



見える物は写真で紹介したいもの。


しっかり露出をかければ昼と見まごうようにも撮れるが、できるだけ見たままの印象に近づけて撮る。


 



こんな光景に見覚えがあるかと思います。


 



そう、ここはダブルダイアモンドで有名な田貫湖休暇村前。


 


4月20日前後と8月20日前後だったかな?その頃には連日100を越すカメラマンがひしめくと言う。


数日前にはかなり混雑していたようだが、この日の夜中には私一人。


そこに月明かりを浴びながら佇む富士山を独り占めし、じっくりと見てきた。


 


 


そうそう、月と富士山と言えば竹取物語がある。


 




wikipedia竹取物語より引用


 


そして当日、子の刻頃、空から天人が降りて来たが、軍勢も翁も嫗も戦意を喪失し抵抗出来ないまま、かぐや姫は月へ帰っていく。別れの時、かぐや姫は帝に不 死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈った。しかし帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国の日本で一番高い山で焼くように命じた。それからその山は「不死の山」(後の富士山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになった。


 




月に帰るかぐや姫の贈った「不死の薬や羽衣、文」を富士山頂で焼いたとのこと。


 


 


 


富士市に伝わるかぐや姫伝説はこれとは少々違い、かぐや姫は富士山の仙女で、月ではなく富士山に帰ったという。


相違はあるが、地域の伝承として興味深い。


 


タケノコの出回る季節、月と富士山からかぐや姫を連想した次第。


 


参考


夜景


  さまざまな写真の縮小表示がありますので、クリックして拡大し、


  画面右側をクリックする事で次々に表示する事が出来ます。


  左側クリックで戻る事も出来ます。


  お試し下さい。


信長の首塚-樹齢500年の柊(ひいらぎ)

芝川町西山本門寺境内にある大柊は、静岡県指定文化財になるほどの樹齢500年と推定される古木だ。柊でこのような大木になるものは珍しいと言う。
この木の根本に本能寺で討ち死にした織田信長の首が埋められているという伝説が伝わっているそうだ。

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「信長公首塚」という石碑がこの伝説を伝える。

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近年樹勢が急速に衰え手当がされた。
朽ちた大枝は切り落とされたが、新しい枝が順調に育っているという。

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平成14年6月25日撮影
樹勢は衰えてはいるものの、まだこの頃は上部の枝があった。
枝張りのおどろおどろしさは伝説を信じさせてくれる。

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柊の根元の塔婆が言い伝えを告げる。
首が埋められた当時、この柊はそれでも100年近い樹齢だったのだろうか。

諫鼓鶏(かんこどり)昇天す!

「諫鼓苔深うして鶏驚かず」

中国の伝説の君子が、自分が政を誤り人民を苦しめる事があったら、この太鼓を叩いて私を諫めるようにと城門の外に太鼓を設置した。

しかしそれだけの気遣いのある人だったので、世は丸く治まり、長い年月を経て太鼓は深く苔むし、鶏の遊び場になっていたという。

それ故に諫鼓に鶏の遊ぶ様を「諫鼓鶏(かんこどり)」と称し、天下太平の象徴として山車飾りなどに用いられるようになった。

将軍家の上覧祭で「江戸天下祭り」と呼ばれた神田祭の一番町大伝馬町の山車にはこの「諫鼓鶏」が載っている。



今年1月に国立科学博物館を見学した際に見かけたものだ。

まさに苔むした太鼓に遊ぶ「諫鼓鶏」で、太鼓面が時計の文字盤になっている。



2種類の諫鼓鶏の時計が展示してあった。





我が町内「湧玉宮本」の山車にも諫鼓鶏が乗っている。

成田山に長年干支の動物を奉納されている竹屋さんにお願いして、竹で編んで頂いたものだ。

昭和57年に山車修復の祭に作成され、1回修理されている。



昨年の秋まつりで見かけた雲だ。

山車上の鶏を投影したような雲が上空に遊んでいる。

作られてもう25年にもなる。諫鼓鶏は役目を終えて、昇天したのだろうか。

濡れ衣



= 百数十年ぶりに復興された山宮御神幸 =

明治以来途絶えていた神事を浅間大社御鎮座1200年を機に復興しました。





= 鉾立石(ほこたていし) =


浅間大社楼門前の馬場側の石段の真ん中に鎮座しているのが鉾立石(ほこたていし)です。



1200年も昔から江戸時代末期まで行われていた神幸祭で、山宮浅間神社まで御神幸に行く際に、この石に鉾を立てて休んだあとは山宮につくまで鉾を地につけることは許されなかったということから、その名がついたそうです。



ところでこの鉾立石にはセメントで接いだあとがあるのですが、それについて以前区長だった方よりうかがった話です。



ある町内の青年が酔って浅間大社を通りかかった際に、鉾立石を持ち上げられるかどうかという話になり、寄ってたかって持ち上げたそうです。しかしあまりの 重さに耐えかね取り落としてしまい、石は割れてしまいました。

権宮司が区長の所に怒鳴り込んできたのも当然のこと。

いわれのある大事な物を損壊するとはとん でもないことで、元に戻せと迫ったそうです。

しかし割れた物は元に戻るわけもなく困った区長は「元に戻す方法があるのならぜひあなたがやってみて下さ い。」と返答しよけい怒りを買ってしまいました。



ところが、この鉾立石を落として割ったのは実は怒鳴り込まれた町内ではなく隣の町内の青年だったということがその町内の言い伝えからわかりました。

怒鳴り込まれた町内にしてみればとんだ濡れ衣ではありますが、ふだんの青年の無頼のごとき行状から、区長も反論のしようがなかったのでしょう。



結局、割れた石はドリルで穴を開け鉄筋を通してセメントで継ぎ目を埋めました。鉾立石前の石段には今でもその時に出来た傷が残っています。

同じ囃子を継ぐ仲間



= 競り合い 富士宮秋まつり 11月3日から5日 =



昭和初期の事。

湧玉御幸が当番町として広く他町を引き回していたときに前後を磐穂の2つの町内に挟まれ、行くも戻るも出来なくなりました。



当時は元々山車がすれ違えないほどの狭い通りですから、どちらが道を譲るかを囃子の競り合いで決めていました。負けた町内の山車は引き下がって道を譲り、かった町内は意気揚々と山車を進めました。

だからこの競り合いで負けないために囃子方は稽古を積んだのです。



前後をふさがれ進退ならぬままの競り合いは圧倒的に不利で、誰しも勝ち目はなく、囃子が立ち往生する物と思いました。

でも意外なことに、進路を塞いだ町内が退いて道を譲ったのです。

じつは、挟 まれたという伝令が西町に飛ぶや、湧玉の他町の囃子方が袢天を脱いで駆けつけ、御幸の囃子方と交代しながら延々と続けたので、挟んだ方の町内が音を上げたということです。



当時の祭り組はまだ同じ囃子を伝えているという連帯感も強かったもののようです。祭り組間での競い合いと協調の好例ではないでしょうか。





このよう に湧玉を親名に名乗るのは同じ「湧玉囃子」を伝えているという名残らしく、当時は他町とはいえ息をそろえて一緒に叩くことも自然に出来た物のよう です。



それぞれの祭り組が確立されて久しいのですが、それゆえに町内毎のお囃子はそれぞれ独特の個性を持つようになりました。

個性が伝えられるというのも 伝承的にはもちろん必要なことですが、同時にその大元が一緒であったということも忘れてはならない事では無いでしょうか。

血染めの笛



= 競り合い 富士宮秋まつり11月3日から5日 =



駿府博(1989)に出演された、根古市流沢田祭り囃子保存会の皆さんに伺った話です。



明治の末頃の話。



沼津市に住んでいた按摩さんでお囃子の名人がいました。根古屋出身なので根古市さんと呼ばれていたその方は強い笛を吹くというので、請われて近隣のお祭りでも笛を吹くことがよくあったそうです。



ある年、大宮(現富士宮市)の秋まつりに請われて笛を吹きに来たそうな。

髭をあたってもらおうと入った床屋は、なんと以前の競り合いでさんざんにうち負かされた相手の笛吹きで、それを恨んだ床屋は卑怯にもかみそりで根古市さんの唇を切り裂いたと言います。



これで笛も吹けず逃げ帰っただろうと思っていた床屋は、多少の後ろめたさは感じながらも山車に乗り、いつものように笛を吹いていました。因縁の競り合い相手の山車が見えたとき、床屋はあっと声を上げへたりこんでしまいました。

なんと切られた唇から血を飛沫かせながらも根古市さんは笛を吹いていたのです。



この時の無理がたたって、唇の傷は大きくあとを残すことになりました。しかしこの話は彼の名を冠した根古市流沢田祭り囃子とともに沼津市沢田に今も伝えられています。



 

= 浅間大社周辺で盛んに行われる競り合いは秋まつりの呼び物です =



参考リンク

富士宮囃子と秋祭り
 こぼれ話より

ふじのみや美図

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