へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

健康

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
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黒酢ショウガのおかげかな 血圧改善

近年血圧が上がり気味でしたが、本日の特定健診で数値の改善が確認されました。

昨年より上で10以上減っていて、二度計っても同じ数値。
緊張性の私は、病院やこう言った場所では自宅で計るよりどうしても高くなってしまいます。でも同じ条件ですから数値の改善は素直に喜べます。

「黒酢ショウガのおかげかな?」

そう言ったところ、血圧を計っていた看護師さんが「やってみようかな」と言ってました。
薬に頼らず、食べ物で改善出来ればそれに越した事はありません。

この黒酢ショウガはテレビで紹介されたものを見て、作り方をネットで探したものです。

・黒酢100ccにハチミツを20cc
・ひねショウガのみじん切りを100g

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これをまぜて冷蔵庫で保存し、毎食時に茶さじ1杯程度を摂ります。
汁物に混ぜたりドレッシングと一緒にかけたりすれば、特に違和感も無く摂る事が出来ます。

効き目を実感出来たのは、10日目ぐらいからだったかな。

血圧が気になられる方は、お試し下さい。




症状がゆっくり出ると重いのかな? : へんぽらいの祭り談義

葬儀参列

本日は葬儀に参列。

姉の義妹のお舅さんが亡くなったのだが、倒れてから一月あまりが経ったとの事。看病されたご家族のご苦労に、ねぎらいの言葉を贈りたい。

惜しい事でしたが、お疲れ様でした。

聞けば、私が盲腸を切った頃同じ病院に入院されていたとの事だったが、病棟も違えば接点もないか。

 

ふと思い出すのは、C型肝炎から肝癌になり最後は肺に転移して亡くなった叔母の事だ。

容態の急変は平成13年の今時分だった。

末期癌はすでに肺へ転移していた。叔母の友人が家族に言うには、ご主人の癌は肺に転移した後一月ぐらいしかもたなかったのこと。だから覚悟はしていた。

放射線治療をするかどうかを聞かれていたが、叔母の意思でしない事をその日返事したばかりだった。

 

家に帰ったら、叔母の友人から病状を問う電話があり母が応対していた。心配してくれての事だからありがたい事ではあるが、電話があまりにも長い。実はこの時、叔母の病状は急変していた。あまりにも電話が通じないために病院から向かいの接骨院に電話がかかり、奥さんが走って取り次いでくれた。いくら心配だからと言っても、こんな状況では長電話は厳に控えるべきだな。

 

病院に駈けつけると医師に聞かれた。

「脳圧が上がり、危険な状態です。

このまま置けば、当人は苦痛を感じる事なく逝けるでしょうが、どうしますか?」

その時思ったのは、何もしないで逝かせたら悔いが残るということ。

出来る事は脳圧を下げる事だけだというので、その処置をお願いした。

 

それから後も意識は戻らないままだったが、息苦しさからか酸素マスクを何度も外そうとするなど、数日間苦しむ様を見せつけられた。

病床で誕生日を迎え、深夜日が変わって間もなく息を引き取った。

 

3月初旬の浅間大社の寒桜が咲く頃の事だ。

 

後で思う事だが、「悔いが残るから」と言う家族の勝手な都合や判断で、回復の望みのない患者の苦痛をただ長引かせただけでは無かったろうか。

 

今日の葬儀帰りに姉とそんな話をして、

「おばちゃん恨んでるかな?」

と言ったら。

「恨みはしないよ。感謝しているさ。」

と言ってもらえた。

 

実は、今回の盲腸手術も同じ病院だから、入院中夢に叔母が出てきて恨み事など言われるのではと、ひそかに心配していたものだ。父もこの病院で4年前の1月に亡くなっている。この時期の入院手術に少し迷ったのもこのためだ。

幸い夢も見ずに退院できたのは、どちらも無事に成仏できたからなのだろうか。

 

今日その話をしたら、母は笑ってこう言った。

「私の時は楽に死なせてね。」

私もそうなったらそう願いたいところだが、ひそかに叔母の苦痛を長引かせた報いが私にはあるんじゃないかと思っている。

 

でもその時はその時。

なるようになるさ。

 

 

盲腸-4

点滴逆流の不安もあって、殆どを病室のベッドで過ごした。


携帯電話の使用については、電話は公衆電話の場所でかけると言うことだが、メールは病室からでも良いとのこと。要するに、声を出さなければ病室でスマホを使用しても良いと言うことらしい。
で、家内にiPadを持ってきてもらったので、退屈することもなかった。
インターネットでニュースなど見ながら、構想から遅々として進まぬ物語の肉付け、誤って初期化し上書きしてしまったデータの救出方法、そんなことを考えていた。

昨年暮れ、メモリーカードを初期化のみならず上書きまでしてしまった。保存が済んだという勘違いからだ。PC内をくまなく探し回って未保存のままの誤消去を確信したものの、大きなミスに一気に血の気のひく思いがした。消えたものは取り返せない。腹をくくってお詫びと撮り直しのお願いをして回った。
しかし大勢の家族で写った宮参りの記念撮影は、取り返しようのない貴重な”時の記憶”だ。これだけでも何とか救えないかと思った。
PCショップの広告でデータ復旧と言う文字を見た時、電話してみた。初期化した上に上書き間でしたものでも、まだ救出の可能性はあるとのこと。すがる思いでメモリーカードを持ち込んでみたが、結果はすでに保存済みの不要なJPEGデータが掘り出せただけだった。

でも待てよ?あのJPEGデータとは同時にRAWデータファイルが記録されているはず。RAWデータファイルの救出をうたう業者なら、掘り出せるかも知れない。
iPadで検索すると業者も見つかったが、ソフトも見つかった。
ソフトはダウンロードでも入手できる。よし、退院したら試してみようと決めた。

手術前に気になっていたのがその時期だ。叔母が亡くなったのが3月、父が1月。似たような時期に入院することに少なからず不安があった。
仏壇に手を合わせることも滅多にない親不孝者だ。叔母や父が文句を言いに夢に出てくるんじゃないかと思っていたが、とうとう夢も見なかった。
どうやら無事に成仏できたのかな。
 

手術後の経過は至って順調で、予定より1日早く退院できたのはなによりだ。

 

 

盲腸-3

手術は2月9日。

朝から食事はなく点滴がそれに代わる。

手術着に着替え、手術室入りは9時15分。点滴スタンドを押しながらの入室。

「昨日は眠れましたか?」と尋ねられたが、前日はすることもなく昼間からベッドでうとうとしていたので、夜はぐっすりとは行かなかったな。

麻酔を脊椎に注射する際、尻にビビッと痛みが走った。神経に障ったらしい。

麻酔が効くと触る感じはしても痛みや熱さ冷たさは感じないとのこと。 麻酔が効いたのを確かめて、やがて手術が始まった。

 

見えても気にはならないのだが、不安を抱いてもということか首のあたりに布を垂らした目隠しをされてしまった。多分見えてもそれが原因で気持ちが悪くなることもなかっただろう。できれば自分で写真を撮りたいぐらいだったのだが、言えるわけがない。でも手術灯のライトのガラスに映るのが見えていたので、じっとそれを見ていた。

「見えますか?」と聞かれたので、「ガラスに映ってるので」と返事。「大丈夫ですか?」には「大丈夫です。」と答えた。

見えるとは言っても範囲は限られるし、映りも小さい。おまけに眼鏡を外しているのでぼんやりとだ。

 

手術で内臓を引っ張られる感じが強いと思ったら急に気分が悪くなった。

「大丈夫ですか!」と看護師さんが声をかける。急に血圧が下がり、顔色が青ざめたのが判ったのだろう。

「迷走神経のショックか」男性看護師がつぶやいた。

薬剤が投与され血圧は徐々に上がってきたが、脳貧血のような低血圧の気持ち悪さは最後まで抜けなかった。

 

手術が終わってもなかなか血圧は正常値にまで上がらず、その間はやっぱり気持ちが悪かった。 その後、血圧を測りながら麻酔がどれだけ覚めたかを繰り返しテストした。 血の気が通常の状態に戻ってきたのは夕刻の事。 麻酔が覚めて歩けるようになり、血栓予防のきついストッキングをようやく脱ぐことが出来た。

まだ食事どころか水もダメ。夕食が配られるのを聴きながら、寝入ってしまった。

検温で目が覚めたのが9時。熱が37.6度あったので点滴に痛み止め(熱冷まし)が加わった。

 

退院前日の夜まで、点滴のチューブは外れることもなく常に点滴液が交換され、抗生剤も何度か点滴に加わった。 トイレに行くにも、点滴スタンドといつも一緒だった。

嫌だったのは血液の逆流だ。トイレに行って帰るとチューブの中に血液が逆流している。看護師さんに戻してもらったのだが、これが3回もおこるとトイレに出歩く気もしなくなる。よくよく考えると追加の点滴が終わる頃トイレに行くとこの逆流が起こっているのに気付いた。常時点滴されているもの一つなら出歩いても逆流は起きない。ようやく点滴とのつきあい方をおぼえたのは退院間際だった。

 

手術当日からは点滴が食事替わりで、当日はもちろん翌10日朝も食事はなく、ようやく食事が出たのは昼から。流動食ということで水のような重湯に味付けのかつおみそ、野菜スープの上澄みにオレンジジュースだけだったが、水分がとれるのは本当にありがたかった。

11日には五分粥、12日にようやく全粥になり、この日の昼食を最後に退院した。

 

辛かったのは手術当日ぐらい。

後は体調も戻り経過も良好だ。

盲腸-2

我ながらどうしてああも簡単に返事ができたのか不思議だ。

多分、内なるもう一人の自分が言わしめたのだ。そう思った。

 

虫垂炎が沈静化してから手術まで3ヶ月半ある。迷わなかったわけでは無い。

 

この間に二人の友が逝った。 一人は昨夏還暦同窓会の筆頭幹事を務めたF君で、腹部大動脈瘤の破裂だったそうだ。 数年前宮踊り撮影中にばったり会って、「体、気をつけなよ。」と気遣ってもらったのだが、その翌日に彼が脳梗塞で倒れた。そちらは幸い軽快し、昨年の二中同期の還暦同窓会で筆頭幹事を務めるほど元気だったので、訃報が信じられなかったものだ。

 

もう一人は21年間消防団で同じ釜の飯を食ったY君で、胆管癌だった。彼は5才も若い。 一昨年癌が見つかり危ぶまれたものの、さまざまな療法を試みて驚くほど元気になった。昨年の三分団新年会には元気に顔を見せてくれ、皆で復調を喜んだものだったが晩秋に癌がリンパに入ったのが判り入院。消防団時代の仲間が連れだって、市立病院に見舞ったのが暮れの事だった。

医師に余命を年内と告げられたという。がんばりで新年を迎えることが出来たが、1月8日次男の成人式の日に息を引き取った。

 

この友に加え、叔母と父もこの市立病院で亡くなっている。叔母が平成13年3月8日肝癌が肺に転移し最後は肺炎で、父が平成20年1月20日糖尿病や狭心症などいろいろ患った末、最後は尿毒症だった。桜咲く春を待てずに逝ったのはどちらも残念だったろう。験を担ぐわけでは無いがちょっと気にならぬでもない。

 

 

おまけに手術のことを聞きつけた仲人の叔母が心配して止めろという。痛まないなら切らぬ方が良いという。ごもっとも。でも、あの時内なる私は切るべきだと思ったのだ。今の日本と同じように、深い深い沈滞にずぶずぶと沈んでゆく日常にけりをつける必要を、たぶん感じたのだ。

 

こじらせての手術では無い。けろっと治り、笑いながら帰ってくるさ。

多少の不安をぬぐい去り入院の日を迎えた。

 

盲腸-1

昨年10月20日に盲腸を発症した。虫垂炎というやつだ。

姪の結婚式、祭り準備に祭り、そして業務の七五三撮影と多忙期を控えており、何でこんな時期にと思ったものだ。 だがしかし翌日受診した外科では、痛みの程度が軽く白血球の数値が前日より大幅に減少していることから炎症が沈静化しているという医師の判断。化膿止めを服用して様子を見ることになった。5日後の検査では正常な値で、炎症はどうやら治まっていた。 とりあえず繁忙期の手術と入院は避けられたものの、いつぶり返すかも判らないと言う不安もある。

「どうします?」

先生が言うには痛みさえしなければ手術の必要も無いしこのままでいいけれど、不安があるようなら切除するのも考えられるとのこと。

「では、仕事が暇になる2月にお願いします。」

いつもは優柔不断な私だが、どう言うわけかきっぱりと、そう返事をしていた。

ひそひそ話

いつも賑やかな家内が、声をひそめて話しかける。なにか外聞をはばかることかと耳を凝らして聞けば、他愛もない日常の会話だ。

なんのことはない。風邪で声が出ないのだ。

あわせて声をひそめようかと思ったが、その必要は無い。

元々声が小さいと、家内に注文をつけられてばかりだったのだから。

 

少々のどがいがらっぽい。

次は私の番かな。

斎場にて

今日は消防仲間の葬儀。

昨日の通夜に続き参列した。
 
収骨までの間待合室で待つのだが、消防仲間の一人がビールを取ってお供えするんだと持って行った。しばらく経っても顔を見せないので炉の前の祭壇を見に行くと、写真の前に缶ビールが一つ供えてある。
姿を探すと斎場の外でかつての仲間達が話をしている。陽の射さない曇り空だ、ただでさえ斎場のあたりは町より標高も高く寒い。待合室に充分空きがあると伝え、中へとうながした。ビール好きの故人にとビールを供えたそうだが、「銘柄が違うから、多分怒って居るぞ。」と仲間が冷やかした。「大丈夫だよ、年とって丸くなったから。」と返す彼も先般癌で胃を全摘したという。
そのT君が意外に元気だったので、闘病の話など遠慮無く聞くことが出来た。発症時すでに生死に関わるほどの重体だったと言うが、ここまで回復できたのはかなりの幸運だったろう。
 
10年以上前の古い詰め所の、冬の情景を思い出す。
当時はヘビースモーカー揃いで、ストーブをつけ閉め切った部屋の中は、もうもうたる煙で目にしみるほど白く霞んでいた。
たばこを吸っている本人でさえ、煙が目にしみたそうだ。
たばこを吸わない私は、人のたばこで健康を害してはなるものかと横になると、畳から50〜60センチほど上までは煙のない層があり、それは見事に空気が分けられていた。
 
今回その煙の大きな発生源のT君が癌と聞いたとき、誰もが肺癌だと思ったものだが、胃癌とはちょっと意外だった。しかし、喫煙もかなりの影響を与えているのだろうな。さすがに今はたばこはやめたという。
 
まだ長い時間は無理だが、仕事にも復帰したそうだ。
 
拾った命、どうか大切に。
 
 

友を送る

今日は亡き友の葬儀。

 

昨夜の通夜では駐車で手間取ったので早めに出かけたところ、まだ席もそんなには塞がっておらず前の方に陣取ることができた。回向が終わり僧侶が退席し、区長さんの弔辞の後、この夏の還暦同窓会で故人と一緒に幹事を務めた3人の幼なじみが弔辞を読んだ。

良い仲間だったんだな。

近くに並んでいた60の爺婆たちが鼻水をすする音が、しばし続いた。

 

式を終え、多くの参列者が出棺を見送った。

 

出棺が終わったら帰るつもりだったが、同級生が火葬場まで行くというのでつき合った。

駐車場から出るのに手間取り、町中の渋滞にはまり、火葬に遅れるのではと心配だったが何とか間に合った。

骨太のスポーツマンは焼き上がりになかなか手間取ったらしく、おかげでこの間に小中学校の同級生、高校の同級生と思い出話をたっぷりすることができた。

すでに定年を迎えたが嘱託で同じ会社に行っているという話も何人かから聞いた。定年のない自営業とは言え、世の中の移ろいはいろんな職種を圧迫している。わが家も然りだが、今さら何になろうと言っても、つぶしのきかない歳になってしまった。

 

弔辞を読んだ幼なじみは、昔のようにまた旅行に行こうと話していたのに、それも叶わなくなってとても残念だという。健康に過ごせる余命が判れば思い残すことなく、したい事も出来るのだろうな。でも、病が進行しての余命なら、判らぬ方が良いって事もあるか。

 

櫛の歯が欠けるように同級生が欠けて行く。

そんな歳になったんだな・・・。

 

 

この一年

まごまごしているうちに今年もあと10日を残すのみとなった。


 


振り返れば今年は、いつになく慌ただしく過ぎ去った。


 


1月1日に若い祭り仲間の他界。


10月に踊りでいつも参加願っていたご婦人が他界。


他にも祭りに関わっていたお年寄りが何人か亡くなった。


 



・昨年写す 湧玉池にて


 


6月にデータを蓄積していたハードディスクが壊れた。


こんな時に復旧できるというRAID方式のはずが、4ドライブの2つが壊れたから復旧できないとの事。復旧専門の業者に見積もって貰ったが、40万から60万かかると言われたらあきらめるしかない。


業務用で使用した加工データと、web用に縮小したデータは、別ドライブに保存してあったので実害はなかったが、20年後半から22年5月までの富士山や風景、祭りといった撮影データが失われたのは大きな損失だ。


 


この秋から撮影と出力をデジタル化した。


フィルム代や現像料、プリント外注料金が抑えられるので多少値下げできた。


フィルム撮影も希望されれば撮るが、これは今まで通りの料金。


このデジタル化により、データ管理は今までより以上に慎重に行わなければならない。


 


健康も今ひとつすぐれず、「富士山の日」「春の菜の花さくらまつり」「開山祭手筒花火」「白糸の滝燈回廊」「川越まつり」などの取材が出来なかったのは残念だった。


体調を崩しやすいのは心肺機能が落ちているからじゃないかと友人に言われたが、確かに思い当たる。


昨年夏に坐骨神経痛を患い、左足に力が入らずけんけんさえ出来ない状態になった。


それまでたまに歩いていたウォーキングも中断し、家にこもりっきり。


風邪が治まったら歩こうと思うが、そのうちにまた風邪をひくかもしれないな。


 


今年が最悪。


新年は今より良くなるものと信じたい。



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