へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

回想

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
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笛玉と二丁笛

11月22日の富士宮囃子合同練習で

 

笛吹きは同じ町内の2人だ。

昔うちの町内の年寄りが話していた二丁笛の話を思い出した。

 

今でこそどの町内にも笛吹きがいるが、まだ低迷期を抜けだせなかった昭和50年頃には笛無しの囃子が多かった物だ。常磐区の中央公園に市役所分室があった頃、そこで湧玉会の遠藤氏が「笛吹きの育成が急務だ。」と囃子の危機を訴えたのをおぼえている。

うちの町内には笛吹きも一人いたが祭りに出てくる事も少なく、太鼓だけの囃子で曳き回す事が多かった。今でこそ笛吹きが複数いて同時に吹く事も増えたが、昔話に聞くその当時笛吹きが複数で囃す事なんて滅多になかったのだろう。

 

複数で笛を吹くと、確かに音量など厚みは増す。それに加えて特徴的なのは物理で言う「うなり」だ。同じパートを吹いていても、音の周波数は微妙に違う。その差で細かな強弱が音に表れるのだ。一つの笛なら「ぴーーーーーーー」っと鳴るところが、「ぴりりりりりりりりり」と鳴る。

二丁笛の醍醐味はやっぱりこの高音部の「うなり」なんだろう。

 

似て非なるものに「笛玉」がある。

二丁笛の「うなり」は音の細かな強弱だが、「笛玉」は音の細かな断続だ。

ホイッスルのコルク玉が音を細かく断続させ、「ぴりりりりりりり」と鳴るのと理屈は一緒だ。

篠笛では洋楽のタンギングのような息の切り方はせず、指使いや息で調節する。

「笛玉」は音の断続だから、超高速タンギングが出来れば似たものになるかも知れないが、やはり限界がある。

最初は唇に力を入れて断続させようとしたが、唾ばかり良く飛ぶ。

後日笛の名人にうかがったところ、舌と上顎を使うのだという。

練習で何とか出来るようになったが、余力を持って笛玉で吹き通すにはまだまだ。

曲の途中で一部笛玉を入れるにとどまっている。

 

11月22日の7回目の練習

にくずしの2廻り目の高音部から少しの間、笛玉で吹いている。

 

師と仰いだ名人のお父さんも笛吹きで、全曲笛玉で吹けたとうかがった。

それは無理にしても、半分ぐらいは笛玉で吹けるようになりたいものだ。

 

 

早すぎる訃報

22日に舞い込んだ訃報は正直信じられなかった。

 

この8月富士宮第二中学校卒業生還暦記念の同窓会を開いたが、その筆頭幹事を務めた藤原啓晶君が亡くなったという。

 

 

 

同窓会であいさつする藤原啓晶君

 

2年ほど前、何年ぶりかで宮おどりの写真を撮っている時にたまたま会ったのだが、私の持病糖尿病を気遣っていただき、「気を付けなよ」と声をかけてもらったのだが、それが彼が脳出血で倒れる前日の事だった。それから復帰して定期的に通院し身体に注意していたと言うが、このたび腹部動脈瘤破裂で帰らぬ人になってしまった。

 

まだ60歳、あまりにも惜しい。

 

ご冥福をお祈りします。

合掌

 

 

笛吹きが思い残す事

ある歓迎の式典で披露した囃子で、私の笛が大失敗を演じた。焼きが回ったかと囃子一切を止めてしまう事も考えたが、このまま終わりたくないという思いから笛も続けていた。


 

それがきれいに解消したのは、神社での定例練習だった。

息に余裕があり、長い皺擦余裕で吹け、笛玉で半分を吹き通しても余力がある。

会心の出来に大失敗のトラウマはもうどうでも良くなった。

これが私の笛の完成だと納得できたので、披露からの引退を宣言した。

 

いわゆる現役は引退したものの、浅間大社授与所前で毎月恒例の合同練習は欠かさず参加している。これは先月の練習をコンデジのビデオで記録したものだ。後進の指導なんてものではなく、混ざって遊んでもらっている。足りないパートを指定され、この時は笛だった。

できに関して言えば、「時々一部で音がひっくり返ってしまう。」「息がいっぱいいっぱいだ。」「笛玉を入れられない。」等々不満は多々ある。

 

囃子人生で思い残す事があるとすれば、会心の演奏が映像や録音の記録として残っていない事だ。幸い、コンパクトデジカメでも高精細な動画を撮影できる時代になったので、とりあえずミスのない笛を録画できるまで録画を続けようと思う。

 

明日と明後日が囃子の合同練習だ。祭りの終わったこの月の練習はまだ余韻も残っていて良い囃子が聴けるだろう。さまざまな祭りの話題で飲み会も盛り上がるだろうな。

 

楽しみだ。

 

 

 

 

 

23富士宮まつり-奉納囃子

全区が同時に宮参りをするのは何年ぶりだろうか。浅間大社の楼門内に全部が入るには無理があるからと、2回に分けて宮参りが行われるようになって久しい。その後、授与所は拝殿前にあった建物も浅間大社1200年祭の改修で撤去され、西隣の祈祷殿に移り拝殿前が広がった。2回に分けられた宮参りも前後で希望が偏るようになり、同時に出来るのではと企画されたものだ。

 

舞台上に上がった秋祭り役員や祭典長方を見ると、前列の男性7人中6人がかつて浅間大社青年会で活動を共にした方たちだった。

 

瑞穂の祭典長遠藤さんも、ほぼ同じ頃に青年会活動をした先輩だ。

今日は奉納囃子の指揮を執る。提灯を上げて初めの合図。一斉に奉納囃子が叩かれた。

 

 

奉納時間は5分。私も囃子方として初めて叩いた時には、緊張で喉がからからになったのをおぼえている。

 

湧玉高嶺の囃子方

 

湧玉二の宮の囃子方

 

我が湧玉宮本の囃子方だ。

 

 

 

 

旧交を温める 富士宮囃子

20年ぶりの復活という宵宮に遅れて参加した。

場内で行われていたのは、湧玉神立と磐穂神田の競り合いだった。 どちらも囃子を大事にする区なので、囃子が素晴らしい。 終了時山車がお互いに下がり囃子方の顔が見えるようになり、初めて気付いた。 おおどを叩いていたのは神立は現富士宮囃子保存会会長の池野君、神田は前会長の篠原君だ。
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声をかけると一緒に写真を撮りたいというので、神立の山車前で写真を撮った。 平成9年の保存会発足時より仲良くしていただいている。私が会長だった頃には強力にバックアップしていただいた仲間だ。 秋まつりの広報で市のキャンペーンなどでも、一緒に囃した仲だ。 聞けば1対1のの競り合いはこの40年でも初めての事だという。 お互いに後進指導という立場で競り合いも久し振りだったようだが、たたき合おうという事でこの夜の競り合いとなったそうだ。 いい顔してます。

祭り前夜

11月2日祭り前日。

 

今日も好天。会所の設営と最終確認だ。

 

日が暮れて会所の準備は完了。

 

山車と底抜け屋台の放送チェックなど行いながら、囃子方は最後の仕上げをしている。

夜が明ければ祭りだ。

 

昔は祭り準備でボロボロになり、そのまま本番を迎える事が多かった。

よく準備途中で風邪を引き、咳も抜けぬままそれをこらえながら笛を吹いていた。

連夜の寝不足で唇が荒れ、競り合いを控えて笛の音が出ないという最悪のコンディションがあった。この時は引き回しの途中で休ませて貰い、唇にハチミツを塗って布団をかぶって寝て、夕刻の競り合いには何とか音を出す事が出来たっけ。

祭りの三日を一人で吹き通すと、横隔膜のあたりが疲れて痛んだ。

 

今ではそこまでボロボロになる事もないが、万全の体勢ではなかなか祭りを迎えられない。

 

「準備が終われば祭りも終わったようなもの。」

先輩の言葉だ。

充分に準備が出来たなら、祭り本番は放って置いても順調に流れて行く。

 

そう願いたいものだ。

 

祭り前日

祭り前日の11月2日だ。今日も快晴。

 

会所前の御祭礼提灯に木札を添えた。

 

集合は午後三時だけれど、今日は血液検査の日なのですぐに抜けなければならない。

先にやっておこうと店のシャッターを半分閉めて2軒隣の区民館で作業をしていた。

 

道具を取りに家に戻りシャッターを開けたところ、中に見知らぬ人がいる。

驚いたけれど平然を装い、「何かご用ですか?」と問うた。

「店はお休みですか」と言う返事はかなりとんちんかんだ。

シャッターが半分下りていれば、休みは当然だろう。それは入らないでという意思表示なのだから。疑念を抱く方が自然だろう。

「シャッターが少しでも下りていれば、それは営業していないという事、入らないのが当然でしょ。」

悪意のあるなしは童顔からは判断できない。不審者と決めつけるわけにも行かないのでお引き取りいただいて、店のレジや財布など確かめたがとりあえず異常はないようだった。

言葉が少したどたどしかったようだが、私の息子にもそんなところがある。

決めつけるわけにはいかないが、外国の人だったかも知れないな。

 

昔祭りの前に、駐車場に置いた車から無線機が盗まれた事がある。

人が流れ込む季節には、いろんな事が起こりやすい。

 

とにかく戸締まりには注意した方が良さそうだ。

 

 

ありがとう

腹痛から盲腸が疑われ、紹介状を書いていただいて富士宮市立病院の救急外科で検査していただいた。やはり盲腸だが快方に向かっていると言う事で、しばらく様子を見る事になった。


 


ファイルを計算窓口へ提出し番号札をもらう。


 


隣の会計窓口でうろうろしていると、中の職員が番号が表示されるモニターの位置を教えてくれた。ずらっと並んでいる待合室の椅子の所まで行かなければ番号は見えないのだった。


 


市立病院には以前糖尿でかかっていたけれど、担当医師の退職で糖尿患者は市内の個人病院に行かざるを得なくなった。それから何年たったのだろう。診察カードは新しいデザインに代わった。通院時の事もけっこう忘れている。会計の表示も忘れた事の一つだ。


 


椅子にかけて待ちながら、薬はどうやってもらったか考えていた。


ようやく会計の順番が来て会計を済ますと、もらったプリントに薬の引換券がついている。


思い出した。これで薬窓口に行けばいい。


そう思ったら、窓口の職員さんが親切に薬の窓口を教えてくれた。


 


思い出したけど、助かりました。


ありがとうございました。


 


 


祭り囃子が遠く聞こえる

秋10月ともなると毎夜囃子の音が聞こえてきます。


町を離れた白尾山や中里山を越えた柚野のあたりまでも届くのだそうです。


 



白尾山からの夕景


 


音に聴く祭囃子は郷愁を誘うもの。


里心を起こさせて若者を引き戻せれば良いなと思いながら、囃子を指導しております。


 


 






浅間大社青年会在籍時代に作った囃子同好会。


その練習に参加する事から囃子を習得し、長年休止されていた祭りが再興できた町内も結構あります。でも囃子方の世代交代も進み、それを憶えている人も現役を退けばルーツが何であったかも忘れ去られるもの。しかたないのでしょうね。


 


とうに浅間大社青年会は卒業したのですが、毎月の練習に囃子保存会の希望者も参加して合同練習をやっています。


町内ごとのクセは、それぞれの町内で囃子を伝えてきた事のあかし。それも長い歴史のなせる技です。相互にクセを認め合い一緒に囃す事で、元が同じものであったということを確認しています。


 


練習しているお囃子は、一般的な形でにくずしから屋台につなげて囃しています。


 


二度と出来ない事

区民館の壁に古い写真が飾ってある。昭和54年私がまだ28歳の頃の富士宮秋祭りの写真だ。当時引き回していたのは屋台で元々は山車として作られたものだったが、戦後屋台に改造し引き回していた。


 



本来なら多数の露店や見物客で賑わうはずの境内には、一軒の露店も出ていない。


暴力団による抗争で参拝客を巻き込む事を恐れ、露天商が出店を自粛したからだった。


この年の祭り記録が8ミリ映画に残っている。いつもならぎっしりと露店が立ち並ぶはずの参道を、宮参りの一行だけが進んで行く。露店のない境内は、寂しさを通り越して異様な光景に見えた。


 


屋台を馬場に曳き入れると聞いたのは、昼の休憩時だった。神社には許可を得たと言うが、西門の石段を下りて入るのだという。誰もが無茶だと思った。


曳き綱を屋台の後に回し、ブレーキをかけながら屋台を進める。1段ごとに梃子棒でショックを和らげながら下ろす。なかなか進まないと思ったら、後に回した曳き綱が必死で引っ張っていたからだった。この様に慎重に進めたために、屋台は事故もなく馬場に下り立った。


楼門前の馬場で、急遽撮影されたのがこの写真だ。


 


この後、正面参道を大鳥居まで進み中道まで戻って自町に帰ったのだが、この時に暴走事故が起こった。鏡池(通称ひょうたん池)の太鼓橋は一見危険には見えない。橋の半ばを過ぎ下り勾配になったところで、屋台車輪が転がりだした。小さな段を落ちたところで鉦を叩いていた私は身体を投げ出され、危うく屋台前に飛び出すところだったが、梁に頭をぶつけて止まり締太鼓を叩いていた仲間の背中に落ちた。


誰しも目に見える大きな危険には慎重になるが、そこここにある小さな危険には気付かぬもののようだ。頭にこぶを作ったぐらいで済んだのは幸いだった。


 


 


この3年後の57年に、屋台は現在の山車に復元された。


 



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