昔富士宮市の高校で何年か教師をされていたそうで、その当時の教え子達と今でも親交があるのだそうです。
その時代というのが暴力団とテキ屋の抗争で祭りに露店が出なかった頃との事。
そんな年があったのを思い出しました。
まさにその年の写真がこれです。

昭和54年11月3日、湧玉宮本は露店の出ていない浅間大社楼門前馬場に、屋台を曳き入れて記念撮影をしました。いつもの祭りならこんな事は出来ません。境内には露店がひしめき、屋台が通れるような通路はありませんから。
おまけに境内馬場に入るには、西門鳥居の内側に石段があります。まずここを屋台で下りようとは、誰も思わないでしょうね。
でも、我が町内はこの屋台で石段を下りたのです。引き綱を後ろに回し、暴走しないように慎重に梃子棒で1段ずつ下ろしたのですが、後ろで必死に綱を引いたのでなかなか進みませんでした。
ようやく階段を下り、楼門前の馬場で記念撮影したものです。
この西門の石段は大正年間の浅間大社(当時は浅間神社)大改修で作られた物です。
西鳥居西側に土を盛り境内と区切ったと聞いています。西鳥居北側にあった第三分団詰め所前を下水道工事で掘った時、道路2メートルほど下に石畳が埋まっていたと工事業者から聞きました。
新たに出来た西鳥居から南の現在の宮町商店街まで続く坂道を「新坂」と呼ぶのは、このことに起因している物でしょう。

大正4年に我が町内は「湧玉御幸」という新たな祭り組を作り、山車を新造しました。その時の記念撮影です。この写真も浅間大社馬場まで山車を引き入れていますが、それが出来たのは大改修前で西鳥居の石段はまだありませんでしたから。
100年後(平成27年)の記念撮影です。

祭り組の変遷から名前「湧玉御幸」は「湧玉宮本」に変わりました。
でも大正4年に作られた山車の土台の足回りは現在まで引き継がれていますので、この山車にとっては100年目の祭りになります。
祈祷殿前まで引き入れ、踊りを奉納して記念撮影を行いました。
馬場に引き入れるには坂道を下りなければなりませんし、露店が出店していればとても通行出来ません。でも祈祷殿前なら、楽に入れます。
祭りの曳き回しをしていたのに露店が出なかったのは、私が祭りに参加し始めた昭和48年以降この54年だけです。当時私は28歳でしたから、この方とは歳が近いのかもしれません。
かなり先輩かと思ってましたが、失礼しました。
今年もいよいよ祭りの準備が始まりました。
10月になればお囃子の練習が始まり、祭り気分は徐々に盛り上がります。
祭りが終わるまで年寄りとしては常に目を配り気を配らねばなりませんが、それを楽しまなくては。
今年も好天に恵まれ、無事に終えられますように。
平成27年富士宮まつり中日曳き回し湧玉宮本-2 : へんぽらいの祭り談義