へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

歴史

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
様々な祭りをご紹介するWEBサイトはこちらです。
http://maturi.info/

枯れ木に花を咲かせよう

触れただけで倒れたという銀杏は、富士山の縄状溶岩の上で深く根を下ろすことも出来ず、周囲に根を広げることもままならなかったのだろうか。


 


同じような老木の倒れたのを見たことがある。


それは浅間大社境内、天神社隣の椎の大木だった。


早朝いきなり倒れ、浅間大社境内透き塀をかすめて少し破損させたと言うが、人や車には被害が及ばなかったという。


 



これがその椎の木の根本だ。


ちぎれて小さくはなっているのだろうが、周囲に張り出すべき根張りがあまりにも小さい。


すぐ下は縄状溶岩で深く根を下ろすことは出来ないが、広く根を張り出すにはスペースが確保できなかったのだろうか。


 



この老木の枝分かれした部分には他種の若木が着床していた。


 


幹の下部には枝が朽ちたような穴があり、そこに潜ろうとするヘビの姿も見たことがある。


上部は案外しっかりしているようだが、根や幹の下部では腐朽が進んでいたのだろう。


 


この木が倒れた一月ほど後に、少し西側の老木も倒れたそうだ。


その頃は浅間大社の神職も上級職が相次いで亡くなっており、まさに世代交代を思わせるものだった。


 


芯部が腐って空洞を生じた樹が、形成層が活発化することで空洞を覆い尽くし樹勢を盛り返すという話も聞く。


 



この老いたシイの大木は以前根本に人が入れるほどの芯部の腐朽による大きな空洞があったそうだ。ある時この空洞に誰かが火をつけ、腐朽部分を伝って上部に開いた多くの穴からも火を噴き出し消火にはとても手間取ったと、以前消防署に勤めていた役員さんから聞いた。


腐った上に火事に遭い、枯れるとしか思えなかったこの木が、なんと空洞を覆い隠すほどに樹勢を回復したのだという。


 この不思議を目の当たりにした氏子達が、この木を御神木に定めたという。


 


枯れた木が幼木のベッドとなり若木を育てる。


倒木更新、切り株更新という話を屋久島で聞いてきた。


 


半分死んでも半分生きているというような状態で、そこに根付いた若木が旺盛な生命力で生長していったら、元の木と融合して一つになることもあるらしい。


 


枯れそうだからと簡単に伐採するのも考え直し、危険がないようなら生かす方策を試みたらどうなのだろう。


 



信長の首塚と言われる西山本門寺の大ヒイラギだ。


枯死が危ぶまれたが、幹から生えた枝が勢いよく育っている。


樹勢を回復してさらなる年輪を加えて貰いたい。


 


昔読んだ易の言葉に「古楊ひこばえを生ず」と言うのがある。


枯れたと思った楊(やなぎ)の根元から新たな芽が生えた。それはとても目出度いということ。


実生の若木はすべてこれから幹や葉や根を伸ばし、少しづつ成長していかなければならないが、ひこばえはしっかり踏ん張った元の木の根がある。


その成長は比べものにならない。


 


簡単に新しいものに植え替えるというのが昨今の風潮だが、人よりずっと長くその地に生きてきた木を思い、見守ってやることも一つの方法ではないだろうか。


 


 


宙に浮いた文化財

本日富士宮市文化財保護審議会が開かれ、冒頭、芝川町が合併したことにより、新たな委員2名が委嘱を受けた。


 


平成21年度事業報告と平成22年度の事業計画に続き、議題となったのは「旧芝川町指定文化財の調査について」だった。


 


芝川町時代の文化財の内、国や県指定のものは指定母体がそのままなので継続するが、旧芝川町指定のものは指定母体が合併により消滅したので、現在宙に浮いた形。


 


文化財としてのの指定基準がそれぞれ違ったということから、そのまま富士宮市文化財にすればいいと言うものではないらしい。


 


20件の文化財を富士宮市の文化財として指定するためにこれから調査を行い、24年頃には富士宮市文化財としての指定を決定するという。


 



旧芝川町指定の本門寺のイヌマキ。推定樹齢は350年という。


平成21年秋撮影


 


富士宮市立第2中学校昭和42年3月(41年度)卒業生を捜しています

静岡県富士宮市立第2中学校昭和42年3月(41年度)卒業生の皆様を探しています。


 


来年平成23年8月頃に還暦を記念して同窓会を開こうという呼びかけがありました。


残念ながら第2中学校自体には全卒業生を束ねる同窓会は無く、卒業から40年余を数えるに至り、卒業時の名簿では消息がつかめない方がとても多いのが残念ながら現状です。


 


とりあえず今年夏にはプレ大会を開こうと言うことで、41年度卒業生の消息を辿りながら同年度卒業生の名簿作成を目指します。


 


ご本人でなくても、お父さんお母さんが該当するという方、ご連絡頂ければ幸いです。


またご存じの同級生の消息などもお知らせ頂ければ有りがたく思います。


 


藤原君、松原君が熱心に動いてくれているようです。


 


インターネットでの連絡先は下記あてにご連絡下さい。


 


連絡先 佐野写真館   こちらまで


 


ご協力をお願いいたします。


 


いにしえの甘味料 甘葛(あまづら)

浅間大社流鏑馬祭で、甘葛太夫(あまづらだゆう)と呼ばれる役職がある。


 



甘葛と呼ばれるいにしえの甘味料を、流鏑馬祭に奉納するという役だ。


 


Wikipediaより引用する。


アマヅラ(甘葛)とは、甘味料のひとつである。砂糖が貴重な時代には水飴と並んで重宝された。一般的にはブドウ科のツル性植物(ツタ(蔦)など)のことを指しているといわれる。一方で、アマチャヅルのことを指すという説もあり、どの植物かは固定されていない。


縄文時代貝塚の中から出土されており、この頃から甘味料として利用されたと思われる。安土桃山時代になり砂糖の輸入が活発になると都市部でアマヅラの需要はほぼなくなり、さらに、江戸時代に砂糖の大量供給が実現すると全国的にアマヅラを作るところは少なくなった。


 


なお清少納言は、枕草子貴族カキ氷のうえにアマヅラをかけて食べる描写を書いているのだそうだ。


 



3本の竹筒に入った甘葛を竹の匙を添えて神前に奉納する。


 



神事の終わりに参列者に甘葛が振る舞われた。


常緑広葉樹の柔らかな若葉に竹の匙で一滴甘葛を垂らし、参列者はこれを舐める。


私もいただいたが、少しとろみのある甘さは蜂蜜を薄めたような感じがした。


 


甘葛 - 戦国日本の津々浦々より によれば、


「深山に自生する蔦(つた)の一種。もしくは、この蔦の樹液を集めて煮詰めて作られたシロップ状の天然甘味料。日本では砂糖の本格普及以前の甘味料として重宝された。」とのこと。


 


砂糖がなかった。あるいは今のように簡単に入手できなかった時代には、あらたまって神前にお供えするほどの、さぞかし貴重な物だったのだろうな。


 


貴重なものを味わわせて頂いたが、これもお祭りにご奉仕させて頂いている役得という物。


 


 


テレビ局からの電話

今日の午後テレビ局を名乗る電話があった。


残念ながら先日取材を受けた局ではない。


 


用件は某市の有る通りに、昔出店していた屋台の写真はないかというもの。


どうやら近年売り出し中の、ご当地グルメ関連の資料探しのようで、インターネットの検索で見つけた創業98年という当店の古さに目をつけたもののようだ。


 


同様の問い合わせは良くある物だが、残念ながら戦前の資料はプリント、ガラス乾板共に残っていない。


戦後の物資の乏しい時代に、ガラス乾板の乳剤を剥がして売ってしまったと聞いた。


ガラス乾板は自家用のものがわずかに残っている程度で、大正時代から昭和初期のものが残っていたら貴重な資料になったものと惜しまれる。


 



 



 



わずかに残っていたのが昭和7年の大宮大火を記録した絵はがきだ。


 


この絵はがきが、富士宮の私的放送局「あいらぶ富士宮」を始めたきっかけの一つだったかも知れない。


 


いつかサイトは消えても、今を記録したデータは何らかの形で残したいと思う。


 


文化財視察研修

来年3月23日に富士宮市と芝川町が合併する。


国や県指定の文化財については問題ないが、芝川町指定文化財がそのまま合併後の富士宮市指定文化財となるかどうかは、指定基準の違いなどもあり単純には判断も出来ない。


 


そんなことから芝川町の担当者に案内して頂いて、2回に分け視察研修が行われた。


社寺に伝わる文化財は見られるものもあれば、年に一度の虫干しの時以外は見ることが出来ないものなどもある。


 


見ることが出来た文化財も撮影は遠慮したので、見学風景のみご紹介する。


 



11月17日に見学した西山本門寺。


 


 



11月26日に見学した本成寺。


 



浅間神社は両側が切り立った狭い尾根の上にある。


 



龍興寺前から見た風景。富士川と山の向こうに富士山が顔を覗かせる素晴らしい眺めだ。


 



廻沢の祥禅寺


 



大晦日(おおづもり)の芭蕉天神


 


人口比で云えば富士宮市と比べてお寺の数は多く、それぞれが所有する文化財も貴重なものがある。それらをいかに保存していくかが大きな課題だ。


 


 


信長の首塚-樹齢500年の柊(ひいらぎ)

芝川町西山本門寺境内にある大柊は、静岡県指定文化財になるほどの樹齢500年と推定される古木だ。柊でこのような大木になるものは珍しいと言う。
この木の根本に本能寺で討ち死にした織田信長の首が埋められているという伝説が伝わっているそうだ。

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「信長公首塚」という石碑がこの伝説を伝える。

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近年樹勢が急速に衰え手当がされた。
朽ちた大枝は切り落とされたが、新しい枝が順調に育っているという。

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平成14年6月25日撮影
樹勢は衰えてはいるものの、まだこの頃は上部の枝があった。
枝張りのおどろおどろしさは伝説を信じさせてくれる。

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柊の根元の塔婆が言い伝えを告げる。
首が埋められた当時、この柊はそれでも100年近い樹齢だったのだろうか。

花になれ


 


「お囃子の祭典」のサブタイトルは「花になれ、富士に集まる囃子の輪」なのだが、「花になれ」に込めた想いを冒頭の挨拶で紹介させて頂いた。

- 挨拶原稿より



「お囃子の祭典」にようこそいらっしゃいました。
多くの祭り囃子をお招きすることが出来ましたので、今日は大いに楽しんでいって下さい。

近年、少子高齢化や若者の流出など、祭りには悩ましい問題も多く
「伝統芸能の保存継承」「後継者の育成」などと言うと、なんだか重たい荷物を背負わされたような気がするものです。
一方、楽しいからこそ祭りは続いてきました。
嬉々として人が祭りを楽しむ姿はまさに「花」と言えるでしょう。
生き生きと「花」が輝けば人は皆憧れます。
楽しむことこそが祭り。
だから、みんなで「花」になりましょう。
楽しむことさえ忘れなければ、道はそこから開けます。
それでは、「お囃子の祭典」開演です。






挨拶の短い時間では伝えられることも限られるが、言いたかったことはこんな事だ。

本来祭りは楽しむために行っているもの。
だからこそ長い間続いてきた。

しかし、それが押しつけられやらされているものだったら
大きな苦痛にもなる。
役がはずれたらさっさと逃げ出すもの。

本来の楽しみを取り戻そう。
祭りを本当に嬉々として楽しんでいる人たちがいるはずだ。
思わずつられて顔がほころぶような。

それが祭りの「花」。
「花」を育てよう、「花」を増やそう、そして「花」になろう。
「花」が美しければ憧れとなり、「花」を目指す人が生まれる。



踊る

村上喜巳さんが昭和42年に書かれた冊子「大宮浅間秋祭り・大宮祭りばやし夜噺」にこんな記述がある。

「又、民謡、流行歌、俗曲等に合せて踊る、群舞形式(地踊り)も大正末期までには無かったものである。殊に昭和初期の一と頃長唄の『元禄花見踊』『五郎』清元の『神田祭り』等の本格的日本舞踊の一節を抜粋して踊った群舞形式(地踊り)が流行したことがあるが、あの形式も明治末期から大正年間を通じての私の“大宮祭り”の記憶には無いのである。」


また神立区誌には次のような記述がある。

昭和3年昭和天皇ご即位の大祭の所だ。

「市内で初めて手踊りを取り入れて欠畑(かけばた)まで囃し、踊り歩き、町中をアッと言わせた。『さすが神立』と言われ、いかにも神立青年らしい。記録には『ああ、愉快、愉快』と結んであった。」

曲目は『関の五本松』を踊ったとの事。



どうも富士宮秋まつりでの踊り(群舞形式《地踊り》)が始まったのは昭和初期、御大典の頃のようだ。





現在、引き回しの合間と競り合いの後などに踊りは盛んに踊られている。

「富士宮音頭」「富士宮秋まつり歌」「富士大宮」といった伝統的な3曲は共同催事の際に必ず踊られ、個々の引き回しの際にはそれ以外にも自由な曲が踊られている。



3日夜恒例の湧玉高嶺との競り合いの後、交互に新曲での踊りを披露し合い、最後に一緒に踊ったものだ。



近年会所などを訪問した際に、新しい踊りを披露し合う事が多い。

楽しげに踊る姿は見ていても楽しい。 




湧玉福地が宮本会所前で披露したオリジナルの踊り。




湧玉神立が宮本会所前で披露したオリジナルの踊り。




5日全ての引き回しを終えての踊りだ。

楽しむために踊る。それが一番じゃないだろうか。



「近年流行歌、民謡、一時的な流行を遂い、なんでもかんでも踊りさえすればよい、とする大宮祭りの乱脈さが激しく募って、浅間秋祭りに純萃な郷土芸能的な創意工風が生ずべき気運の兆しをさえ阻んでいる。」

前出の村上氏はこう嘆くが、踊る事で嬉々として祭りをもり立ててくれる人たちが居るからこそ、祭りは続いているとも言える。

祭りが楽しみであるためには、はやり歌でも良いんじゃないか。



踊る人たちの笑顔を見るたびに、そう思う。


諫鼓鶏(かんこどり)昇天す!

「諫鼓苔深うして鶏驚かず」

中国の伝説の君子が、自分が政を誤り人民を苦しめる事があったら、この太鼓を叩いて私を諫めるようにと城門の外に太鼓を設置した。

しかしそれだけの気遣いのある人だったので、世は丸く治まり、長い年月を経て太鼓は深く苔むし、鶏の遊び場になっていたという。

それ故に諫鼓に鶏の遊ぶ様を「諫鼓鶏(かんこどり)」と称し、天下太平の象徴として山車飾りなどに用いられるようになった。

将軍家の上覧祭で「江戸天下祭り」と呼ばれた神田祭の一番町大伝馬町の山車にはこの「諫鼓鶏」が載っている。



今年1月に国立科学博物館を見学した際に見かけたものだ。

まさに苔むした太鼓に遊ぶ「諫鼓鶏」で、太鼓面が時計の文字盤になっている。



2種類の諫鼓鶏の時計が展示してあった。





我が町内「湧玉宮本」の山車にも諫鼓鶏が乗っている。

成田山に長年干支の動物を奉納されている竹屋さんにお願いして、竹で編んで頂いたものだ。

昭和57年に山車修復の祭に作成され、1回修理されている。



昨年の秋まつりで見かけた雲だ。

山車上の鶏を投影したような雲が上空に遊んでいる。

作られてもう25年にもなる。諫鼓鶏は役目を終えて、昇天したのだろうか。

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