へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

随想

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
様々な祭りをご紹介するWEBサイトはこちらです。
http://maturi.info/

遠音 ー 祭りが終わる時 その3 月夜のにらみ合い

「あの、てっちゃんさんてなんて呼べばいいんですか?」

遠慮がちに香代が聞いた。

「そうだな。苗字で呼んでもこの辺では『佐野さん』は多すぎるから、てっちゃんでいいんじゃない。」

現に、店の向かいも隣も「佐野さん」だ。人口の1割が佐野姓だと言うから、人混みで「佐野さん」と呼んだらいっぺんに何人もが振り返る事だろう。

「それでいいよ。昔からそう呼ばれてるから。」

 

香代にとってのてっちゃんは実に興味深い存在だ。 てっちゃんが東京での暮らしを語ることはなかなか無いからあえて詮索はしないので、てっちゃんも隠すわけでは無いが話す機会が無い。謎めいたなかなか渋い爺さんが、ちょっと気になる様子だ。

 

マスターは思う。

てっちゃんが母親が亡くなった後東京に出て行ったきっかけは、祭りでのあの揉め事だったろう。 必死で止めようとしたけれど止められず、けが人が出てその後数年間祭りが休止されてしまった。

笛吹きとしてのデビュー目前での休止はつらい。おまけに唯一の肉親との死別が追い打ちをかけたのだろう。 笛の師匠だったマスターの父親がとても悔しがったのを憶えている。

 

でも帰ってきたきっかけは、たぶん還暦の同窓会だった。

幼なじみ3人が顔を合わせるのもあの七回忌での帰省以来だった。

「28年ぶりか?」

「そうだな。」

順調に子供が出来ればそろそろ孫がいてもおかしくない歳だが、とうとう子供は授からなかった。 先に結婚していた弟の次男をゆくゆくは養子に迎えることにして、小さな頃から家の行き来をさせている。 甥の祭り好きはどうやら祖父譲りらしい。

てっちゃんといえばあのまま独身を通している。

東京暮らしも郷里で暮らした25年を超えた。若い時の大工修行が思いのほか役に立ち、工務店で現場監督として社長からの信頼を勝ち取り、職人達からの人望も厚く下町の安アパートでの一人暮らしも、馴れれば捨てた物でも無い。

でも社長が亡くなり工務店も息子の代になると、職人に人望のあるてっちゃんは煙たがられるようになった。 小さな事務所を借りて職人のネットワークを活かし、工務店を始めたのが2年前。 遅れて合流した現場監督の後輩のおかげで多少の自由もきくようになり、還暦同窓会への誘いにも出席できた。

しかし最近飲み仲間が孤独死したのが、気ままなはずの一人暮らしに影を落としている。

「行きつけの飲み屋に無断欠勤したら覗いてもらうよう、合い鍵を渡してあるんだ。でも、お寺さんだけは事前に手配しておかなきゃならんかなって。」

 

それでお寺さんへの相談がてら、祭りに合わせての帰郷となった。

 

祭りの喧噪も囃子の音も消え、人が退き始めた境内を抜けると目抜き通りから駅前まで歩いてみた。

郷里を離れて35年。この間に法事で1-2回は訪れたが、その時は用件に追われ改めて町を眺めることもなかった。

昔暮らした頃の記憶とは町並みはすっかり変わってしまったが、看板の名を見れば昔からの店が変わらずに営業を続けているのがわかる。 昔何度も通った居酒屋に立ち寄り、茹で落花生をつまみに一杯引っかける。代替わりして当時初老だった親父さんの姿はなく、息子と思われるどこか面影が似ている店主が、小気味よく応対している。

ちょっとばかり良い気分で神田川沿いを浅間大社に戻ってきた。

 

神田橋にさしかかると、夜も更け人通りも絶えた大通りに不審な一団を見つけた。

袢纏を脱いだのは町名を隠すためか。おまけに梃子棒まで持参とはただ事ではない。 いきり立っている若者が梃子棒を放そうとしない。仲間がなだめようとしているようだが、頑として受け付けない。

これは殴り込みだ。

大事にならぬように、何とかしなけりゃならん。

 

一団はどうやら交番前を通るのを嫌っているようで、てんでに川上を指さしている。 てっちゃんは下駄を脱ぐと手に持ち、境内の露店の間を駆け抜け御手洗橋に先回りした。

境内に立ち並ぶ露店の間を下駄を手に駆け抜ける姿を見れば、誰しもただならぬ空気を感じる。

「いた!てっちゃんだ。」

その姿を追ったのは、幼なじみのまあちゃんとそのかみさんのなっちゃんの二人だった。

姿を追って御手洗橋に着くと、てっちゃんは足の砂をはらい下駄を履き息を整えていたが、不敵にニヤッと笑ったのをマスターは見逃さなかった。 そしててっちゃんは素知らぬ顔で橋の欄干にもたれ川を見ていると思ったら、しばらくしてなんだか危険な雰囲気を漂わせた一団がやって来た。

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思いのほか時間がかかったなと思いながらてっちゃんが声をかける。
「ちょっと待ちな!」

橋を渡ろうという一団の前に、立ちはだかった。
明らかな喧嘩支度は夜目にも判る。

 

「どうするんだろう。」

 

奈津子が心配そうに言った。

 

さっきの笑みは何か策でもあるのかと見たが、通せんぼしたのは良いが多勢に無勢だ。この年寄り一人で、かなうわけもない。

 

 「許可無く他区に立ち入る事はご遠慮願いたい。」

 

一同顔を見合わせた。当惑の色は隠せない。

 梃子棒を持った男が焦れてドンと橋を突いた。

 

 てっちゃんはぱっと飛び退くと下駄を脱ぎ、半身に構えて手に履いた。

 

「やる気かい?」

 

「無理だよ、お巡りさんを呼んでくる。」

 

という奈津子を止め、様子を伺うことにした。

 

梃子棒男を押しとどめ、年長と見える男が前に出る。

 心なし微笑んでいるようだ。

 

「どうぞ履き物をお履き下さい。」

 

そういうと目くばせをした。

ばかに時間がかかると思ったら、梃子棒男をなだめながらここまで来たためらしい。たしかに誰だって、梃子棒持っての殴り込みを黙って許すわけがない。

 

ゆっくりと履き物を履き直した。

 

追えば逃げる 「遠音 ー 祭りが終わる時」より 2

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再開したスナック猫目屋には待ちかねた馴染みの客が押し寄せた。
とは言っても数は知れている。マスター一人で丁度良いくらいだ。


四方山話の中で、触れないつもりでもついつい亡くなったかみさんの話になる事がある。
客も気がつくと話題をそらせていたけれど、マスターが笑って話せるようになるにははまだしばらく時間が必要で、ようやく気兼ねなく話が出来るようになったのはもう一月ほど後のことだった。

遠慮がちなてっちゃんにマスターが言った。
「いちいち気にしなくてもいいさ、もう大丈夫だ。」
マスターとおかみさん、てっちゃんは幼なじみ。
思い出話にはいやでもおかみさんが顔を出してしまうから、これでは話の種が無い。
「そうか」
笑いながらてっちゃんが話し出した。
「おまえが血相変えて俺を追いかけたこと、憶えてるか?」
「おまえが法事で帰ったときだったな。」
「あの時のおまえはなんだか恐ろしかったぞ。」
「そうかもな」
「鬼みたいな顔をして追いかけてくるから、こっちも必死で逃げ回った。」
「なっちゃんに会ってくれーってね。」
「だから逃げ回りながら、なっちゃんちに行ったんだ。」
「すぐおまえが来たけど、隠れてた。」
「いないと思って、また飛び出したんだ。」
「その後なっちゃんと話したんだ。
おまえがなっちゃんと話せって追いかけ回してるって。」

母親の七回忌の法事で久しぶりに帰省してみると、笛の師匠だったまーちゃん(マスター)の親父さんも何年か前に亡くなっていた。墓に参った時まーちゃんのお袋さんに会い、笛を習いに訪れていた頃の話になった。
「あの人はね、あなたが良い笛吹きになるって楽しみにしていたんですよ。」
申し訳なさに墓前に深々と頭を下げた。
あんな大喧嘩にさえならなければ、憧れつづけた笛吹きになってふるさとを離れることもなかったろうに。
その後だ、お袋さんから話を聞いたまーちゃんが血相替えて追いかけてきたのは。
逃げ回ったあげくに飛び込んだなっちゃんの店は、お袋さんが続けてきた子供相手の駄菓子屋で、奥に置いた鉄板でお好み焼きや焼きそばを焼いて食べさせる店だった。お袋さんは買い出しで留守だったが、久しぶりに会ったなっちゃんはずいぶん綺麗になっていて、話を聞くと笑って言った。
「何勘違いしてるんだろうね。
てっちゃんは確かに小さい時からの憧れだけど、所帯を持ちたいと思ってるのはまーちゃんなのに。」
正直うらやましかった。
「あいつに伝えようか?」
「大丈夫、自分で言うわ。」
「次に来る時には子供が居るかな。」
「かもね。」

「そのまま電車に乗ったんだ。」
「その夜の事だ。のれんを仕舞ってからあいつは切り出したよ。」「てっちゃんに会ったよ。久しぶりに話したけど変わってなかった。
でも憧れは所詮憧れね。息が詰まるもの。
所帯を持つのなら、やっぱり空気みたいな人が良い。」

そう言うと、前に座り居住まいを正して話し出した。
「いつもいつも守ってくれてありがとう。
あたしを、」

「ま、待て!俺に言わせてくれ。」
かしこまって、声を絞り出した。
「嫁になってくれ。」

「何年待たせたことになる?」
てっちゃんが問うと、
「あの喧嘩騒ぎの後、おまえのお袋さんが亡くなっておまえが東京に出て行っただろう。
多分そこからだから、七回忌でまるまる6年か。
「6年もか、もったいない。」
6年早かったら子供だって授かったかも知れない。
結局子供をあきらめ、マスターの実家を次いだ弟の次男坊に後を託す事にした。
養子のような物だが同居でも別居でもなく、あるいはどちらでもあるようなゆるい関係。
家が二つあるような物で気ままに行き来をし、どちらにも要領よく甘えている。

「でも、追いかけっこも無駄じゃなかったんだ。」
横から香代が言った。
下部で知り合った娘、名は香代という。
あの後、浅間大社に参詣すると言って富士宮を歩き回り、気に入ったからとアルバイトを見つけてきた。
「で、住むとこないんだけど、居候させてくれない?」
「おいおい、仮にも男の一人暮らしに居候はないだろう。」
しかし、知り合いにアパートや下宿屋は居ない。
幸い店は二階で鍵もかかる。物置に使っていた店奥の三畳間をとりあえず空けた。
住まいは一階だからまあ間違いも起こるまい。
「給料貰ったらちゃんとした所探すんだぞ。」
それから共同生活が始まった。
居候だから家賃もない。
代わりに少しぐらいはと言う事で、仕事から帰ると洗い物と片づけを手伝うようになる。
するとなんだか若い客が増えてきた。
出しゃばるわけでは無く奥にいるのだが、
「いらっしゃいませ」
の声が小気味よい。
ある日の事、甥っ子のけん坊が血相変えてやって来た。
「おじさんどういうつもりなんだい!」
連れあいを亡くして一月半、まだ喪も明けないうちに若い娘を連れ込んだともっぱらの噂らしい。
人は口さがない者、言わせておけばいい。
しかし、そんなに伯父が信用できないか?
「馬鹿もん。俺がそんな事すると思うか。」
一喝した。
「一応紹介しておく。香代ちゃんだ。」
仕事から帰り、窓際で猫を撫でていた娘が立ち上がって会釈をした。
「今は居候ですが、アパートが見つかったら引っ越します。」けん坊は不意をつかれ、赤面しながら言った。
「いえいえ、焦らなくていいですよ。どうぞごゆっくり」
あたふたと逃げるように去った。
その晩からけん坊は店に皆勤賞。
なんだか昔見たような光景だ。

香代のおかげで新規の若い客が増え、一人ではどうにも手が回らなくなった。
聞けば香代は以前喫茶店で働いていたというので、正式に働いて貰う事になった。
「ホットケーキやピラフは得意なんですよ。」
店のメニューも増えた。
一方けん坊は酔客から香代をガードしているようにも見える。
なっちゃんに虫がつかぬよう、毎晩通っていた自分の姿が重なる。焦るなよ。焦って追いかけると逃げられるぞ。
内心そう思いながら、若い日の自分を見る想いでてっちゃんと二人で見守る事にした。
 

物語を一つ

人の一生はそれ自体一つの物語ではあるけれど、さまざまな成功や失敗多くの経験が語られぬまま消えてゆく事を思うと惜しくてなりません。
自分が生きた証を何かの形にに紡いで残せたらと思うに至りました。出来る事なら物語を一つ、そして歌を一つ。

以下は永年暖めてきた物語のひとかけらです。ご感想などいただければ嬉しく思います。
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奥さんが亡くなってからのマスターはなかなか立ち直れない。
店は一月閉めたままで、再開のめどは立たないで居る。
思い出の東京をさまよい歩いたものの、癒されるどころか寂しさが募るばかりだ。
なかば後悔しながら帰途についた。
身延線下り電車も富士では満席だったものが、富士宮を過ぎるとガラ空きとなった。
富士宮で降りずに乗り越したのは、もたれて眠る若い女性に亡き妻の面影を見たからだ。
声をかけて降りればいい。それだけのことだがそれでは惜しい気がした。
「そうだな。下部まで言ってみるか。」
所帯を持った時、二人で初めて旅行したのが下部だった。
日帰りで出かける事はあっても旅行の思い出は他にはなく、唯一の思い出の地だ。

「すみません。次で降りますので。」
声をかけるとようやく目を覚ましたが、寝ていた事に気付くと顔を赤らめた。
「あ、次は何処でしょうか?」
「下部です。」
「よかった。乗り過ごす所だったわ。」
駅に降り立ったのは数名、それぞれ宿の迎えに導かれて行った。
乗り越し料金を精算し、温泉街を川に沿って歩いてみる。
多少改築された宿も見えるが、ひなびた雰囲気は昔と変わらない。
足を止めたのは古びた旅館前。
名前までは憶えていなかったが、昔泊まったのはたしかにこの宿だ。
ここに泊まる。
夕食まで時間があったので浴衣掛けで付近を散策した。
宿に戻るとロビーのソファーに腰掛けぼんやりと暮れゆく外を眺めていた。
「電車では済みませんでした。」
振り返るとあの娘が立っている。
「あ、いやいや気にせずに。」
娘は軽く会釈して隣のソファーに腰を下ろした。
「友達と来るつもりだったんですけど、ドタキャンされちゃって。」
「彼氏ですかな?」
「友情より彼氏の方が大事だって。」
「若い方ならそれもしょうがないかな。
そうそう、あてて見せましょうか?」
「え、何を?」
「傷心旅行と見た。」
「なんで判るの?」
「若い時いろんな占いに凝ったものだが、極意は直感だと悟ったわけ。」
「直感なの?」
「易にも凝ったけれど、卦を立てているうちに出る卦が先に判ってしまうようになった。
で、この卦は誰が与えているのかって考えた時、自分自身の潜在意識だって思い至った。
それで考えたんだ。
精神的にも未熟で人生経験も乏しいまま占いを続ける事は、大きな間違いではないかってね。
それで占いは封印した。」
「それって若いときのことでしょ。
今だったら的確なアドバイスも与えられるんじゃない?」
「そうかも知れない。」
「私を占ってくれない?」
「占うまでもないよ。
あなたの持つ明るさは、もうそんなものは乗り越えている。
これからどの道を選ぶかはあなた次第だ。」
「ふうーん。」
「おじさんも傷心旅行ね」
「お、」
「図星ね。」
「あんたの直感も大したもんだ。」
「でも、もう大丈夫って顔に書いてあるわ。」
話している内にがたがたに緩んでいたネジが締まった。
どうやら店を再開できるかな。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。
これは永い事暖めている「遠音 祭りが終わる時」という物語の一部です。
まだまだ荒削りな筋でしかありませんが、いつの日か一つの物語として完成させたいと思っています。

ここまで読まれた方、一言「読んだよ!」とコメントいただければ幸いです。

Facebooで嬉しいこと、嫌いなこと

 facebookをやっていて嬉しいことは、投稿に対しリアルタイムで反応が得られると言うこと。皆さんが気楽にいいねをクリックしたり、コメントを投稿してくださる事が、大きな励みになっています。

私の運営するwebサイトのほとんどはxoopsを使用して、見ていただいた方にもコメントや投票(Facebookのいいねのようなもの)で参加していただけるような仕様になっています。でも、そういった物から反応が得られたためしがありません。気がつけばwebサイトの更新は滞り、Facebookには写真主体に多数の投稿を毎日行うようになっています。大きな原因は、この投稿に対する手応えのあるなしでしょう。
 
 
Facebook投稿に対する反応で一番嬉しいのはシェアしていただく事です。これは言ってみれば最上級の共感ですね。
次はコメント。これには共感も反感もあるでしょうが、大きな反応、手応えを感じられて嬉しい物です。
そして「いいね」。facebookで投稿に対する反応として、ようやくxoopsサイトの「投票」のようなものが定着してきた感じがします。でも一方で安直にいいねをしすぎる傾向も感じられますので、無いよりはましってところでしょうか。
 
そして嫌いな物です。
コメントは嬉しい物ですが、投稿に対する反応で無い場合が最近見受けられ、投稿の内容と無関係に定型の挨拶文をコピペしたような物がやけに多いように思います。
ニュースフィードに表示される多くの投稿に、内容と無関係にただの定型文をペーストしてゆく流れ作業。こんなコメントには、人間味も共感も感じずただただ不快感をおぼえるだけです。
私のウォールにこんな投稿やコメントがあれば身勝手な割り込みとして即刻削除します。この様なコメントは、良識ある大人のすることではありませんから。
削除を不快に感じて友達の解消やブロックされる事があったとしても、それはむしろ歓迎すべき事。こちらからの友達解消やブロックは、原因が相手にあっても恨みを買いかねませんから。
念のために、私の自己紹介にはそういったコメントは削除すると書いておきました。
 
Facebookというこの有用な無料のサービス、大いに活用させていただき、多くのグループやfacebookページを運営しています。私がすっかり気に入ってしまったのは、投稿写真の容量制限もなくグループやfacebookページの数も自由だと言うこと。このSNSにとても感謝しています。
 
たびたびの仕様変更や使い勝手などの不満を、ウォールに投稿される方がけっこう見受けられます。
感謝もせずに「なんだかなぁ」と思いつつ、私はまだまだこのサービスを大いに活用させていただこうと思っています。

大伸ばし対策

集合写真を大きく伸ばす場合、今までならブローニーフィルムで撮影し、ラボに現像・プリントを発注すれば済んでいた物だが、昨今の情勢はちょっと変わってきている。
あらかじめ問屋に発注して準備しておけば別だろうが、急ぎでフィルムを入手したいときにはカメラ店にも在庫がない事が多い。
取引ラボの廃業や業務縮小などの事情により、以前のように多様なサービスが受けられなくなりつつある。
業務を内製化せざるを得ない状況がどんどん進んでいる。

 

 

町内の集合写真だ。
ブローニーのリバーサルフィルムで撮影し高解像度スキャンした物だ。
これをA2でプリントし、適当な額がないのでフレーム付きパネルに貼って区民館に飾った。
今までの記念写真が全紙プリントをマットパネルに貼った物だったので、縁取りを含めたサイズは今回の物は小さく見えるが、実効画面では遜色ない。

 

 

上はブローニーのリバーサルフィルムで撮影し高解像度スキャンした物。
下はデジタル一眼レフで撮影した物。

新型の解像度の高いカメラならこれほどの差はつかないかも知れないが、中判カメラはまだまだ健在だ。今無理して高解像度のデジタル一眼レフを購入する必要は無いな。

問屋に発注しても日にちがかかることが多いブローニーフィルムだが、amazonに在庫があればこの方が速いかも知れないな。
amazonのブローニーフィルム

桜に思う

3月21日に浅間大社に所用で出かけたところ寒桜が見事に咲いていた。

 

ここだけ見たらまさしく爛漫の春だ。

しかしソメイヨシノはまだつぼみも堅く、卒業に桜というイメージは少なくとも

富士宮市ではあたらない。

 

例年富士宮市での桜の盛期は3月末から4月の初め。

だから卒業には間に合わず、入学には散り始めるくらいだ。

この年になっても鮮やかに思い出すのは、散り始めた桜の下を母親に手を引かれ小学校の入学式に向かったことだ。

 

今日現在の浅間大社馬場の様子だ。

"桜の馬場"と呼ばれる境内東西に走る道は、流鏑馬にはまさしく馬が走る馬場となる。馬場の両側には桜が植えられ、盛期には見事な眺めを見せてくれる。

 

これが桜の盛りだ。

裸の木々が一斉に花をまとう。

沈滞の静から一気に萌え動き始める。

もの皆全てが動き始める始まりの春だ。

 

もう少し、もう少しで全てが始まる。

今は期待してそれを待つ。

 

 

葬儀参列

本日は葬儀に参列。

姉の義妹のお舅さんが亡くなったのだが、倒れてから一月あまりが経ったとの事。看病されたご家族のご苦労に、ねぎらいの言葉を贈りたい。

惜しい事でしたが、お疲れ様でした。

聞けば、私が盲腸を切った頃同じ病院に入院されていたとの事だったが、病棟も違えば接点もないか。

 

ふと思い出すのは、C型肝炎から肝癌になり最後は肺に転移して亡くなった叔母の事だ。

容態の急変は平成13年の今時分だった。

末期癌はすでに肺へ転移していた。叔母の友人が家族に言うには、ご主人の癌は肺に転移した後一月ぐらいしかもたなかったのこと。だから覚悟はしていた。

放射線治療をするかどうかを聞かれていたが、叔母の意思でしない事をその日返事したばかりだった。

 

家に帰ったら、叔母の友人から病状を問う電話があり母が応対していた。心配してくれての事だからありがたい事ではあるが、電話があまりにも長い。実はこの時、叔母の病状は急変していた。あまりにも電話が通じないために病院から向かいの接骨院に電話がかかり、奥さんが走って取り次いでくれた。いくら心配だからと言っても、こんな状況では長電話は厳に控えるべきだな。

 

病院に駈けつけると医師に聞かれた。

「脳圧が上がり、危険な状態です。

このまま置けば、当人は苦痛を感じる事なく逝けるでしょうが、どうしますか?」

その時思ったのは、何もしないで逝かせたら悔いが残るということ。

出来る事は脳圧を下げる事だけだというので、その処置をお願いした。

 

それから後も意識は戻らないままだったが、息苦しさからか酸素マスクを何度も外そうとするなど、数日間苦しむ様を見せつけられた。

病床で誕生日を迎え、深夜日が変わって間もなく息を引き取った。

 

3月初旬の浅間大社の寒桜が咲く頃の事だ。

 

後で思う事だが、「悔いが残るから」と言う家族の勝手な都合や判断で、回復の望みのない患者の苦痛をただ長引かせただけでは無かったろうか。

 

今日の葬儀帰りに姉とそんな話をして、

「おばちゃん恨んでるかな?」

と言ったら。

「恨みはしないよ。感謝しているさ。」

と言ってもらえた。

 

実は、今回の盲腸手術も同じ病院だから、入院中夢に叔母が出てきて恨み事など言われるのではと、ひそかに心配していたものだ。父もこの病院で4年前の1月に亡くなっている。この時期の入院手術に少し迷ったのもこのためだ。

幸い夢も見ずに退院できたのは、どちらも無事に成仏できたからなのだろうか。

 

今日その話をしたら、母は笑ってこう言った。

「私の時は楽に死なせてね。」

私もそうなったらそう願いたいところだが、ひそかに叔母の苦痛を長引かせた報いが私にはあるんじゃないかと思っている。

 

でもその時はその時。

なるようになるさ。

 

 

学校で何を習ったの?

昨日は定例の囃子練習だった。

 

浅間大社の境内参拝者休憩所をお借りして毎月2日間お囃子の練習をしている。

浅間大社青年会囃子同好会のご協力を得て、合同練習と言う形を取り市内の祭典実施区より希望者が集う。

 

浅間大社楼門内はバリアフリー工事ということで、石畳や歩道を広げるための工事中だ。

3月末日までが予定されている。桜の開花前には完了して欲しいものだ。

 

これは拝殿西にある寒桜。早い年には節分過ぎくらいから咲き始め、2月下旬の囃子練習にはかなり咲いていたものだが、今年は開花が遅いようだ。それでもようやくつぼみが膨らんだので開花は秒読みかな。

 

囃子の練習が終わってから”やまさく”でいつもの歓談。

他愛もない話で楽しむのがいつもの事だが、その中で”非を認めない若者”の話が出た。

 

助言や注意に反発し逆ギレする。自分の非は絶対に認めない。そんな例には私も遭遇した事がある。自分は悪くないの一点張りで、聞く耳を持たぬ姿に世代間ギャップを通り越して唖然としたものだ。

 

どうしてこんなになったのだろう?

あやまればつけ込まれて不利になるという、どこかの国の考え方なのか?

やっぱり大きいのは、身近な家族などの影響つまりは家庭の問題なのだろう。

まさか学校で教えては居ないだろうと思いながら、昔聞いたフォークソングを思い出した。

”学校で何を習ったの”と言う歌だ。

 

高石ともやの歌があるのでご紹介する。

 

あの頃のフォークが聞きたいより歌詞を引用する。

 

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学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん

ワシントンは嘘はつかないと
兵隊はめったに死なないものと
誰も 彼もが自由だと 先生が僕に話してくれた

学枚で今日習ったよ そういうふうに習ったよ



学校で何を習ったの 司愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん

お巡りさんは僕の友達で 正義は決してほろびはしない
殺人した人 罪で死ぬ 時々まちがいはあるけれと

学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ



学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん

僕らの政府は強くって そしていつでも正しくて
議員は立派な人達だから 選挙のたびに同じ人選ぶ

学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ



学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん
学校で何を習ったの 可愛いいおチビちゃん

戦争はそれほど悪くはないと フランスやドイツで戦って
アメリカ軍は負けたことがない そのうち僕らも戦えるんだ

学校で今日習ったよ そういうふうに習ったよ


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元はトム・パクストンの歌。

 

誰がしつけたものか知らないが、せめて”ワシントンは嘘をつかない”という”正直の美徳”は忘れずに教えて欲しい。

人として大事な事だから。

 

参考

あの頃のフォークが聞きたい

 

 

盲腸-4

点滴逆流の不安もあって、殆どを病室のベッドで過ごした。


携帯電話の使用については、電話は公衆電話の場所でかけると言うことだが、メールは病室からでも良いとのこと。要するに、声を出さなければ病室でスマホを使用しても良いと言うことらしい。
で、家内にiPadを持ってきてもらったので、退屈することもなかった。
インターネットでニュースなど見ながら、構想から遅々として進まぬ物語の肉付け、誤って初期化し上書きしてしまったデータの救出方法、そんなことを考えていた。

昨年暮れ、メモリーカードを初期化のみならず上書きまでしてしまった。保存が済んだという勘違いからだ。PC内をくまなく探し回って未保存のままの誤消去を確信したものの、大きなミスに一気に血の気のひく思いがした。消えたものは取り返せない。腹をくくってお詫びと撮り直しのお願いをして回った。
しかし大勢の家族で写った宮参りの記念撮影は、取り返しようのない貴重な”時の記憶”だ。これだけでも何とか救えないかと思った。
PCショップの広告でデータ復旧と言う文字を見た時、電話してみた。初期化した上に上書き間でしたものでも、まだ救出の可能性はあるとのこと。すがる思いでメモリーカードを持ち込んでみたが、結果はすでに保存済みの不要なJPEGデータが掘り出せただけだった。

でも待てよ?あのJPEGデータとは同時にRAWデータファイルが記録されているはず。RAWデータファイルの救出をうたう業者なら、掘り出せるかも知れない。
iPadで検索すると業者も見つかったが、ソフトも見つかった。
ソフトはダウンロードでも入手できる。よし、退院したら試してみようと決めた。

手術前に気になっていたのがその時期だ。叔母が亡くなったのが3月、父が1月。似たような時期に入院することに少なからず不安があった。
仏壇に手を合わせることも滅多にない親不孝者だ。叔母や父が文句を言いに夢に出てくるんじゃないかと思っていたが、とうとう夢も見なかった。
どうやら無事に成仏できたのかな。
 

手術後の経過は至って順調で、予定より1日早く退院できたのはなによりだ。

 

 

盲腸-3

手術は2月9日。

朝から食事はなく点滴がそれに代わる。

手術着に着替え、手術室入りは9時15分。点滴スタンドを押しながらの入室。

「昨日は眠れましたか?」と尋ねられたが、前日はすることもなく昼間からベッドでうとうとしていたので、夜はぐっすりとは行かなかったな。

麻酔を脊椎に注射する際、尻にビビッと痛みが走った。神経に障ったらしい。

麻酔が効くと触る感じはしても痛みや熱さ冷たさは感じないとのこと。 麻酔が効いたのを確かめて、やがて手術が始まった。

 

見えても気にはならないのだが、不安を抱いてもということか首のあたりに布を垂らした目隠しをされてしまった。多分見えてもそれが原因で気持ちが悪くなることもなかっただろう。できれば自分で写真を撮りたいぐらいだったのだが、言えるわけがない。でも手術灯のライトのガラスに映るのが見えていたので、じっとそれを見ていた。

「見えますか?」と聞かれたので、「ガラスに映ってるので」と返事。「大丈夫ですか?」には「大丈夫です。」と答えた。

見えるとは言っても範囲は限られるし、映りも小さい。おまけに眼鏡を外しているのでぼんやりとだ。

 

手術で内臓を引っ張られる感じが強いと思ったら急に気分が悪くなった。

「大丈夫ですか!」と看護師さんが声をかける。急に血圧が下がり、顔色が青ざめたのが判ったのだろう。

「迷走神経のショックか」男性看護師がつぶやいた。

薬剤が投与され血圧は徐々に上がってきたが、脳貧血のような低血圧の気持ち悪さは最後まで抜けなかった。

 

手術が終わってもなかなか血圧は正常値にまで上がらず、その間はやっぱり気持ちが悪かった。 その後、血圧を測りながら麻酔がどれだけ覚めたかを繰り返しテストした。 血の気が通常の状態に戻ってきたのは夕刻の事。 麻酔が覚めて歩けるようになり、血栓予防のきついストッキングをようやく脱ぐことが出来た。

まだ食事どころか水もダメ。夕食が配られるのを聴きながら、寝入ってしまった。

検温で目が覚めたのが9時。熱が37.6度あったので点滴に痛み止め(熱冷まし)が加わった。

 

退院前日の夜まで、点滴のチューブは外れることもなく常に点滴液が交換され、抗生剤も何度か点滴に加わった。 トイレに行くにも、点滴スタンドといつも一緒だった。

嫌だったのは血液の逆流だ。トイレに行って帰るとチューブの中に血液が逆流している。看護師さんに戻してもらったのだが、これが3回もおこるとトイレに出歩く気もしなくなる。よくよく考えると追加の点滴が終わる頃トイレに行くとこの逆流が起こっているのに気付いた。常時点滴されているもの一つなら出歩いても逆流は起きない。ようやく点滴とのつきあい方をおぼえたのは退院間際だった。

 

手術当日からは点滴が食事替わりで、当日はもちろん翌10日朝も食事はなく、ようやく食事が出たのは昼から。流動食ということで水のような重湯に味付けのかつおみそ、野菜スープの上澄みにオレンジジュースだけだったが、水分がとれるのは本当にありがたかった。

11日には五分粥、12日にようやく全粥になり、この日の昼食を最後に退院した。

 

辛かったのは手術当日ぐらい。

後は体調も戻り経過も良好だ。


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