へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

随想

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
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盲腸-2

我ながらどうしてああも簡単に返事ができたのか不思議だ。

多分、内なるもう一人の自分が言わしめたのだ。そう思った。

 

虫垂炎が沈静化してから手術まで3ヶ月半ある。迷わなかったわけでは無い。

 

この間に二人の友が逝った。 一人は昨夏還暦同窓会の筆頭幹事を務めたF君で、腹部大動脈瘤の破裂だったそうだ。 数年前宮踊り撮影中にばったり会って、「体、気をつけなよ。」と気遣ってもらったのだが、その翌日に彼が脳梗塞で倒れた。そちらは幸い軽快し、昨年の二中同期の還暦同窓会で筆頭幹事を務めるほど元気だったので、訃報が信じられなかったものだ。

 

もう一人は21年間消防団で同じ釜の飯を食ったY君で、胆管癌だった。彼は5才も若い。 一昨年癌が見つかり危ぶまれたものの、さまざまな療法を試みて驚くほど元気になった。昨年の三分団新年会には元気に顔を見せてくれ、皆で復調を喜んだものだったが晩秋に癌がリンパに入ったのが判り入院。消防団時代の仲間が連れだって、市立病院に見舞ったのが暮れの事だった。

医師に余命を年内と告げられたという。がんばりで新年を迎えることが出来たが、1月8日次男の成人式の日に息を引き取った。

 

この友に加え、叔母と父もこの市立病院で亡くなっている。叔母が平成13年3月8日肝癌が肺に転移し最後は肺炎で、父が平成20年1月20日糖尿病や狭心症などいろいろ患った末、最後は尿毒症だった。桜咲く春を待てずに逝ったのはどちらも残念だったろう。験を担ぐわけでは無いがちょっと気にならぬでもない。

 

 

おまけに手術のことを聞きつけた仲人の叔母が心配して止めろという。痛まないなら切らぬ方が良いという。ごもっとも。でも、あの時内なる私は切るべきだと思ったのだ。今の日本と同じように、深い深い沈滞にずぶずぶと沈んでゆく日常にけりをつける必要を、たぶん感じたのだ。

 

こじらせての手術では無い。けろっと治り、笑いながら帰ってくるさ。

多少の不安をぬぐい去り入院の日を迎えた。

 

盲腸-1

昨年10月20日に盲腸を発症した。虫垂炎というやつだ。

姪の結婚式、祭り準備に祭り、そして業務の七五三撮影と多忙期を控えており、何でこんな時期にと思ったものだ。 だがしかし翌日受診した外科では、痛みの程度が軽く白血球の数値が前日より大幅に減少していることから炎症が沈静化しているという医師の判断。化膿止めを服用して様子を見ることになった。5日後の検査では正常な値で、炎症はどうやら治まっていた。 とりあえず繁忙期の手術と入院は避けられたものの、いつぶり返すかも判らないと言う不安もある。

「どうします?」

先生が言うには痛みさえしなければ手術の必要も無いしこのままでいいけれど、不安があるようなら切除するのも考えられるとのこと。

「では、仕事が暇になる2月にお願いします。」

いつもは優柔不断な私だが、どう言うわけかきっぱりと、そう返事をしていた。

斎場にて

今日は消防仲間の葬儀。

昨日の通夜に続き参列した。
 
収骨までの間待合室で待つのだが、消防仲間の一人がビールを取ってお供えするんだと持って行った。しばらく経っても顔を見せないので炉の前の祭壇を見に行くと、写真の前に缶ビールが一つ供えてある。
姿を探すと斎場の外でかつての仲間達が話をしている。陽の射さない曇り空だ、ただでさえ斎場のあたりは町より標高も高く寒い。待合室に充分空きがあると伝え、中へとうながした。ビール好きの故人にとビールを供えたそうだが、「銘柄が違うから、多分怒って居るぞ。」と仲間が冷やかした。「大丈夫だよ、年とって丸くなったから。」と返す彼も先般癌で胃を全摘したという。
そのT君が意外に元気だったので、闘病の話など遠慮無く聞くことが出来た。発症時すでに生死に関わるほどの重体だったと言うが、ここまで回復できたのはかなりの幸運だったろう。
 
10年以上前の古い詰め所の、冬の情景を思い出す。
当時はヘビースモーカー揃いで、ストーブをつけ閉め切った部屋の中は、もうもうたる煙で目にしみるほど白く霞んでいた。
たばこを吸っている本人でさえ、煙が目にしみたそうだ。
たばこを吸わない私は、人のたばこで健康を害してはなるものかと横になると、畳から50〜60センチほど上までは煙のない層があり、それは見事に空気が分けられていた。
 
今回その煙の大きな発生源のT君が癌と聞いたとき、誰もが肺癌だと思ったものだが、胃癌とはちょっと意外だった。しかし、喫煙もかなりの影響を与えているのだろうな。さすがに今はたばこはやめたという。
 
まだ長い時間は無理だが、仕事にも復帰したそうだ。
 
拾った命、どうか大切に。
 
 

月明かり

先日の皆既月食の始まりの頃、長時間露出で撮った富士山だ。

まだ月は明るかったが、雲もあって三脚使用でもそれなりに露出をかけなければならなかった。流れる雲がボケて、それなりに面白い写真になったのはもうけものだった。

 

満月の月明かりは案外明るく、カメラを三脚に据え充分露光をかけると昼と見まごう写真にもなる。

昼間のようにも見えるが空には星も見えている。

肉眼で見えているものとの相違が激しく、現実的ではない。

 

それでも満月の光はかなり明るく、雪面なら明瞭に見える。

ライトなしでも足下が見えるほどで、月明かりの富士山に魅せられてからは、狸でなくても浮かれ出たくなる。

 

月明かりに浮かぶ富士山と桜の花。この春の写真だ。

残念なのは暗部のノイズやざらつきだ。
暗部ノイズの出現頻度はデジタルカメラの性能、機能によっても差があるが、対策としてはある程度の露出をかけ、画像編集で明度を落とすことだろうか。

 

※昨日は画像がアップできませんでしたが、今日は無事にアップできました。

 点数や容量の問題ではなかったのかな?

 

 

今日の月

皆既月食一日前の今日の月です。

 

コンデジのズーム機能と手ぶれ防止機能で、手持ちでもなんとかこの程度に撮れた。

三脚を使用すればもっと明瞭に撮れそうだ。

 

冬の星座と紅い月、月の欠け満ち、明日の皆既月食をどこで撮ろうかとわくわくしている。

 

どうか晴れてくれ。

 

 

 

12月10日皆既月食

12月10日の満月に皆既月食が見られるそうだ。

 

特集サイトによれば、

 

部分食の始まりが21:45頃

皆既食の始まりが23:05頃

皆既食の最大が23:31頃

皆既食の終わりが23:58頃

部分食の終わりが01:18頃

 

だという。

11時台は地球の影の中ということらしい。

前後のかけ始めから元に戻るのは21:45から01:18というからかれこれ3時間半かかる。

寒空にずっと野外で観察しているのも辛いが、家から出たり入ったりすれば良いか。

 

先日コンデジで撮影した月だ。

このぐらいに写れば何とか記録できるんじゃないかと思うので、晴れる事を祈っている。

 

皆既中の月は暗く紅い色になるそうで、満月には見えにくい星も月明かりがないのでこの時にはかなりの数が見られるという。

 

満天の冬の星空と紅い月という組み合わせも、写真としては面白いな。

 

 

=参考=

皆既月食特集記事

 

 

もし富士山が崩壊すれば

「よほどの事がない限り起きないだろうが」と、前置きをしてから本題に入ろう。

 

先日発売の雑誌に「富士山噴火と崩壊の恐怖」と題する記事が掲載された。

それを見てある火山学者が、「定石は富士宮に崩して駿河湾にまっさかさまだ。」とTwitterでつぶやき、それを見た富士市在住の先輩が質問をしたところ丁寧にご説明をいただけたそうだ。

 

すごいものだね。居ながらにしてリアルタイムに専門家から説明していただけたってのは、インターネットやTwitterあればこそ。情報の飛び交う速度には驚きを禁じ得ない。

 

グーグルマップ富士山より

 

富士山の形はきれいに整っているようだが、等高線で見れば実はきれいな円形ではなく、楕円か小判型に北西から南東方向に長い。 その方向には傾斜もなだらかで、山体も厚みがある。反対に北東から南西方向は短く、傾斜も急で山体も薄い。噴火や崩壊の危険は薄い方角にある。薄い方向は2方向あるが、富士山に吹く西風の影響で、噴出物の堆積は東側に厚い。最も薄い富士宮側の危険性が一番高いとのこと。

 

 

セントヘレンズ山の山体崩壊

 

よほどの事がない限り起きないだろうが、もし富士宮側で崩壊が起これば崩れ落ちた山体は雪崩を打って駿河湾まで駆け下るだろうとのこと。岩石雪崩の通り道にあった街は跡形もなくなり、海になだれ落ちた膨大な岩石で大津波が起こるという。

 

押し寄せる岩石津波で、この羽鮒山まで飲み込まれてしまうのだろうか。

もしも愛する富士山の美しい姿とふるさと富士宮市が消えるなら、ここからそれを見届けたいと思う。

 

浅間大社が現在地に祀られて1200余年が経った。祀られた当時は富士山の活動がまだ活発で、富士山の鳴動を鎮めるために勅命によりこの地に遷されたという。

東海地震の危険が言われて永い。先日の直下型地震で噴火が起きてもおかしくなかったとも言われる。

 

やはり守られているのかも知れないな。

富士山の崩壊や街の消失、そんな事の無いように祈りたい。

 

 

さらば昴よ - 2

それが昴だと判ったのは家に帰ってモニターで見た時だった。

 

ウィキペディア昴より抜粋すると、

 

プレアデス星団の和名。昴星(すばるぼし)とも。別名、六連星(むつらぼし)。

 

スバル - 富士重工業が生産する自動車のブランド名。

 

昴 (谷村新司の曲) - 谷村新司の代表曲。

 

とある。

 

 

スバルのブランドは以前乗っていた車レガシーのメーカー、富士重工業の物だ。

東京に暮らした頃、西新宿から新宿駅までスバルビルの下を通っていたし車にも乗っていたので、マークの形はおぼえていたはずなんだが、マークと実物はやっぱり違うかな?

 

昴が富士山のてっぺんから昇るこの場所は、富士重工業さんにとっても象徴的な場所ではあるまいか。

 

それはさておき、あの日雲に覆われた富士山のてっぺんから昇った星の群れが、好んで歌っていた歌に謳われている昴だったとは、宿縁みたいな物を感じる次第だ。

 

次に思ったのは、雪の富士山から昇る昴が撮りたいと言う事。

冬になれば富士山は雪化粧する。だからいつでも撮れそうに思うが、昴が富士山から昇る時間はだんだん早くなる。しっかり雪が積もる頃には、暗くなる時間にはすでに高く昇っている。

 

昨年11月19日に訪れた時だ。

雲が邪魔し、月は満月。この時間にはすでに昴は昇っていた。

 

 

積雪、月齢、天候など条件が揃わないと思うような写真は撮れない。

日々早くなる昴の出が日が暮れて暗くなる前になってしまうと、出は撮れない。

 

今年はもう無理かな。

 

 

さらば昴よ - 1

昔地元の青年長を引き受けた頃、現役青年団員は自分を入れてわずか3名。

それ以前からすでに組織としての体を為さなかったものだが、祭りになれば青年後見というOBが参加してくれて、町内で屋台の引き回しを行う事ぐらいは何とかなった。しかし事前の準備と片づけ、精算は現役青年の仕事だ。

現役で在宅で自由がきくのは私しか居らず、祭り衣裳の注文から広告などの寄付集めは私の仕事だった。おまけに子供への囃子指導まで背負い込めば、負担はかなりの物。

やらされているという意識にさいなまれる毎日だった。

 

祭りの当日の区民館前、遠くからお囃子が聞こえる。三々五々人が集まってくるが、区民館を見て皆怪訝な顔をする。そこはいつもの区民館で、祭りの準備が何も出来ていないのだ。

口々に騒ぎ始める。

「何で準備が出来ていないんだ!」

「青年団は何していたんだ!」

そして

「青年長は誰だ!!」

青ざめた。

頭を抱えてしゃがみ込み、どうしよう、どうしようと繰り返した。

 

はっと気付くと明けやらぬ朝の気配に、まだ薄暗い自分の部屋だ。

全身冷や汗にまみれながら、カレンダーでまだ祭りまで間がある事を確認し、胸をなで下ろした。そこまで追いつめられていた物だった。

 

自分は酒も飲めないのに、祭りに出た集団は祭りが終われば集まった祝儀を持って飲み屋に繰り込みどんちゃん騒ぎ。

やらされているという思いは常に抜けず、誰のためにやっているのかを常に考えた。

 

止めてやる。

青年長が終わったら、後の事は知らん。

つぶれる物ならつぶれてしまえ!

そう思っていた。

 

ある祭りでまだ小さな女の子が、祭り衣裳の着物を着せてもらって嬉しそうにしている。

「踊って見せて」とご婦人の声がかかると、おぼつかない振りで踊りを真似た。

その顔の嬉しそうな事と言ったら。

 

その時目から鱗が落ちた。

こんなにも祭りを楽しみにしている子供がいるのなら、この子らのために祭りをやろう。

それが転機だった。

 

放っておけば引きこもりになっていたかも知れないもやしっ子が、やっとその気になった。

そんな時に聞いたのが「昴」という歌だった。

「我は行く、青白き頬のままで」

そんな歌詞にとても共感を覚え、「昴」は愛唱歌となった。

 

ところがなかなか星を見る機会もなく、実際に「昴」という星座を見た事はなかった。

 

数年前の夏、流星群を写真に撮ろうと上井出まで出かけた。

最初頭上を覆っていた雲がいつか晴れ、富士山頂をわずかに覆うだけとなった時、その雲の中からキラキラとざわめくように星の群れが空に昇った。

 

それが昴だった。

 

 

 

ふるさとの山

ふるさとの山に向かひていうことなし ふるさとの山は懐かしきかな

 

啄木の歌だ。

 

この石川啄木の短歌に「千の風になって」の作者新井満氏が曲をつけ、教員時代の啄木が弾いたというオルガンで啄木ゆかりの渋民小学校の土橋理佳先生が伴奏し、生徒達が斉唱しているそうだ。

 

異郷にありて思うのはふるさとの山の姿。

ふるさとにいるとそこにあるのが当たり前で有り難みを忘れがちだが、それを感じるのは大きな悲しみや悩みにぶち当たった時だったりする。


私にとってのふるさとの山は、まぎれもなく富士山だ。

 

その懐に街を抱き、いつも静かに見守っている。

その姿に大いなる母性を感じていたものだ。

 

 

 

そんな富士の姿に亡くなった親を重ねてみる。

見守られていた幸せに気付いたのは、やっぱり失ってからだった

父が亡くなって感じたのは「思ったほど不良ではなかったな」ということ。

生前はあまり好きでなかったはずの親父と、知らず知らずに同じ事をしているのに気づくことが多々ある。昔だったらイヤだっただろうが、今はそんなにイヤではない。

 

先日亡くなった友の生き方は「誠実に、穏やかに、そして凛として」だった。

そんな言葉に、ふと富士山の姿が重なる。

 

これからは富士山を見るたびに、友の事を思い出すのだろうな。

まさに誠実で穏やかで、凛として気高いスターだった。

ご冥福をお祈りします。

 

合掌

 

 

 


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