保険契約書w640

山車と小屋、備品に掛けられた昭和19年の保険の証券です。
左側中ほどの火災保険、地震保険にはさまれた戦争保険という言葉が、時代を物語ります。

保険封筒640

御幸組というのは当時の祭り組織で、社人町(しゃにんまち)と福住町(ふくずみちょう)から構成されていました。

この保険の申込人佐野芳太郎が私の祖父です。
昭和30年に65歳で他界していますが、私もその歳に近づき思うことは多々あります。
ともすれば引き籠もりがちな小心者が、引きずり回されているうちに気付いたら同じ道を歩いていたこと。なんだか同じようなことをしていると苦笑を禁じ得ません。
そう進むよう、実は導かれていたんじゃ無いだろうかとふと思います。

明治29年湧玉

明治29年の記念写真です。
前列中央左の顔の長い子供が、祖父芳太郎6歳です。


明治44年

そしてこれが明治44年の記念写真。当時は社人町と寿町合同で「湧玉寿」という祭り組でした。
中央左の顔の長いのがたぶん祖父芳太郎当時21歳で、翌大正元年に佐野写真館を創業しました。


大正4年御幸祭り

大正4年の御大典に湧玉御幸は山車を新調しています。
芳太郎は25歳。すでに写真館を開業していたので、これを撮影していたのかな?
撮る側ゆえ、記念撮影に入れないのは今の私も同じです。


宮本祭り

そしてこれが晩年のもの。
後列右端が晩年の祖父芳太郎で60歳代でしょう。

私も地元の祭りを死ぬまで見守ることになりそうです。


祖父がどのような立場だったかは判りませんが、大宮青年団の持っていた山林の売却に立ち会えという古い箪笥から出てきた市からの通知を見た事があります。
大宮青年団が持っていた山林が戦後売却され、そのお金を市が借りて学校が整備されたそうですが、そのお金は結局青年団に返却されませんでした。祖父は何度も掛け合ったものの埒があかず、胃潰瘍を患って何度も吐血。
昭和29年に次男が結核で他界すると、後を追うように30年に亡くなりました。
叔母のスクラップブックの地方紙記事は、それを「大宮青年の父の死」と報じていました。

学校整備で使われ、うやむやにされた山林売却代金。市は大宮青年団に大きな借りがある。
それを某市会議員に言った所、古い話だから時効だと言われました。
何も返却しろという話では無く、学校整備に大宮青年団の財産が当てられたという事実をどこかに残しておかなければあまりに恩知らずな話です。
なにより、そのために命を縮めた祖父が浮かばれません。

わが家の墓地には大宮青年団から贈られた石燈籠があります。祖父に対する感謝でしょうか。
何物にも代えがたい祖父の勲章です。