へんぽらいの祭り談義

富士山とふるさと富士宮市の風景、祭り・催し、自然、生き物などをSNSなどネットに発信し、多くの写真で紹介しています。

歴史

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
様々な祭りをご紹介するWEBサイトはこちらです。
http://maturi.info/

屋台、浅間大社に入る

今年富士山頂滞在で、山頂の警備をされていた方と話す機会があり、昔話を伺いました。
昔富士宮市の高校で何年か教師をされていたそうで、その当時の教え子達と今でも親交があるのだそうです。
その時代というのが暴力団とテキ屋の抗争で祭りに露店が出なかった頃との事。
そんな年があったのを思い出しました。

まさにその年の写真がこれです。
S54miyamoto

昭和54年11月3日、湧玉宮本は露店の出ていない浅間大社楼門前馬場に、屋台を曳き入れて記念撮影をしました。いつもの祭りならこんな事は出来ません。境内には露店がひしめき、屋台が通れるような通路はありませんから。

おまけに境内馬場に入るには、西門鳥居の内側に石段があります。まずここを屋台で下りようとは、誰も思わないでしょうね。
でも、我が町内はこの屋台で石段を下りたのです。引き綱を後ろに回し、暴走しないように慎重に梃子棒で1段ずつ下ろしたのですが、後ろで必死に綱を引いたのでなかなか進みませんでした。
ようやく階段を下り、楼門前の馬場で記念撮影したものです。


この西門の石段は大正年間の浅間大社(当時は浅間神社)大改修で作られた物です。
西鳥居西側に土を盛り境内と区切ったと聞いています。西鳥居北側にあった第三分団詰め所前を下水道工事で掘った時、道路2メートルほど下に石畳が埋まっていたと工事業者から聞きました。
新たに出来た西鳥居から南の現在の宮町商店街まで続く坂道を「新坂」と呼ぶのは、このことに起因している物でしょう。

宮本大正4年大社馬場

大正4年に我が町内は「湧玉御幸」という新たな祭り組を作り、山車を新造しました。その時の記念撮影です。この写真も浅間大社馬場まで山車を引き入れていますが、それが出来たのは大改修前で西鳥居の石段はまだありませんでしたから。



100年後(平成27年)の記念撮影です。
集合

祭り組の変遷から名前「湧玉御幸」は「湧玉宮本」に変わりました。
でも大正4年に作られた山車の土台の足回りは現在まで引き継がれていますので、この山車にとっては100年目の祭りになります。
祈祷殿前まで引き入れ、踊りを奉納して記念撮影を行いました。
馬場に引き入れるには坂道を下りなければなりませんし、露店が出店していればとても通行出来ません。でも祈祷殿前なら、楽に入れます。



祭りの曳き回しをしていたのに露店が出なかったのは、私が祭りに参加し始めた昭和48年以降この54年だけです。当時私は28歳でしたから、この方とは歳が近いのかもしれません。
かなり先輩かと思ってましたが、失礼しました。


今年もいよいよ祭りの準備が始まりました。
10月になればお囃子の練習が始まり、祭り気分は徐々に盛り上がります。

祭りが終わるまで年寄りとしては常に目を配り気を配らねばなりませんが、それを楽しまなくては。


今年も好天に恵まれ、無事に終えられますように。



平成27年富士宮まつり中日曳き回し湧玉宮本-2 : へんぽらいの祭り談義

昔の写真

5月24日に浅間大社の昔の写真を展示することになり、古いアルバムを複写していた所、うちで奉納した写真が見つかりました。

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まだ浅間大社青年会の若手だった頃、暗室で見つけた昔のガラス乾板を複写して引き伸ばしたものです。正確な撮影年が判りませんが、その時に奉納した他の写真が父親が若い頃撮ったものということでしたから、おそらく青年時代の事なのでしょう。



この橋右手奥にこんもりと茂るのが、流鏑馬祭川原祓いで訪れる水神社の森。
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流鏑馬祭初日の5月4日、流鏑馬祭参加者は水神社に出向き祭りの無事を祈って富士川川原にて祓いを行います。



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同級生が水神社の役員をやっていると言うことで、写真を希望されました。
アルバムの複写では変褪色して画質はかなり悪くなります。そこで元になったガラス乾板を探し、トレース用のLEDパネルの透過光で高解像デジタルカメラで撮影したところ、かなりきれいに複写出来ました。

この橋自体は大正13年に架けられたとのこと。まだきれいなものです。

アルバムには昭和5年と書いてありますが、対象10年生まれの父親はその頃まだ9歳ぐらいでしたからおそらく誤りで、もっと後のことだったのでしょう。
父親が撮ったのが二十歳前後だったなら、昭和15-6年頃だったかもしれませんね。



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第六十二回神宮式年遷宮お白石持ち参加 2013.7.28

平成25年7月28日、前日の浜参宮に続く本番だ。

 

参加者は神宮の駐車場に集まり説明を聞いた。

 

待機しているお白石持ちの奉献車 

 

このどれかを曳くのかと思っていた。 

 

奉献車に積まれたお白石 

 

 

曳く奉献車はすでにおかげ参道に配置されていて、その横を通ってずっと前方に移動した。綱の長さは260メートルとのことで、振り向いてもカーブする道の陰で奉献車は見えない。

 

いよいよ曳き始め。かけ声に唱和して一斉に綱を曳く。 

 

何カ所かに設けられた給水所では奉仕される方々が拍手とハイタッチで迎えてくれました。 

 

同行の仲間たち 

 

遠くの看板の向こうに、ちょっとだけ奉献車が見えた。 

 

移動距離は800メートルと短く、260メートルの綱前方ではさらに短い。

ゴールの宇治橋には案外あっけなく着いてしまいました。

 

残念ながら写真はありませんが、この後手水を取りお白石を白布でくるんで両手で持って御垣内に進み、新たなお社の周囲にそっと置いてきました。

 

前回のお白石持ちは参加できず、20年経ってやっと参加できました。

次のお白石持ちの20年後にも、元気だったらぜひ参加したいと思います。

 

 

 

 

第六十二回神宮式年遷宮お白石持ち参加 浜参宮

平成25年7月27日に翌日参加するお白石持ちに先立ち、禊ぎに当たる浜参宮で二見興玉神社に参拝しました。

 

 

お祓いを受けます。

 

夫婦岩

空気がきれいに澄んだ日に限られますが、この間に富士山が見えるというのは有名です。

夏至の頃夫婦岩の間に昇る朝日の中に、富士山のシルエットが写っている写真を見せていただきました。

 

それぞれ参拝します 。

 

夫婦岩遙拝所 

 

人がなでるからでしょうか、所々光っています。 

 

 

悲運の人富士亦八郎重本

9月26日は毎年大宮司家墓所護持会の総会と墓前祭が行われる。
富士大宮司家とは代々浅間大社宮司を世襲してきた由緒ある家柄。

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駿州赤心隊子孫による玉串奉奠。
墓前祭の最中に雨が降り始め、傘も用意された。


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会場を浅間大社参集所に移し、墓所護持会の総会が始まった。


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墓所護持会も40年年目ということで、富士宮市富士山文化課課長渡井一信氏による講演が行われた。


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最後の大宮司、富士亦八郎重本は明治維新の激動期に尊皇の志し高く駿州赤心隊を組織し官軍に参戦した。戦には勝ったが、駿河の国は大政奉還した徳川家の領地となり、郷里大宮(現富士宮市)には徳川家の御家人が入植した。赤心隊隊士であった神官が襲撃され、殺害されるなど旧徳川家臣による蛮行に生命が脅かされる状況となった。
窮状を政府に訴え田結果、救済策として維新の戦乱でなくなった兵士を慰霊する東京招魂社が作られ、多くの隊士がここに奉職した。
これが靖国神社の前身だ。



1200年以上昔から江戸時代末期まで浅間大社の宮司職を努めてきた富士大宮司家の居館跡を示す芙蓉館の碑で、富士宮市民文化会館敷地内にあります。

碑建立のいきさつを、碑文は次のように語っています。
「富士亦八郎が東京に移った跡、かつて富士氏の住んだ芙蓉館も日に日に荒廃の一途をたどり、その一部は耕地と化し、また他は狐狸の窟となり、ありし日の 面影は消え去ろうとしていた。亦八郎はこうした先祖伝来の由緒の地が消え去ろうとすることを恐れ、これを永久に記念するため、この碑を建てようとした。」

富士亦八郎重本の無念を思い起こさせる。

富士宮市文化財視察

9日から発熱して寝込んでしまった。


思えば風邪が発症した8日が富士宮市文化財保護審議会の視察の日だった。


花粉症が今年はやけに症状が激しいと最初は思っていたのだが、どうも違ったようだ。


 


視察の報告がまだだったので、とりあえず写真でご報告する。



視察場所は下条の妙蓮寺


南条氏の居館跡に妻妙蓮尼の一周忌供養のため建てられたという。


 



1780年に建てられたという下庫裏は、現在も住宅として使われている。


 



大庫裏には合計百数十畳にもなる大小9部屋の座敷がある。


 



すでに市文化財指定を受けている客殿。


 



樹齢約600年と言われる山茶花が、寺の歴史を物語る。


 


 


鼻水は止まり熱こそ下がったものの、今度は喉が痛む。


症状が一巡しなければ風邪も完治しないかな。


 


 


冬至

今日は冬至。


 



 


Wikipedia「冬至」によれば


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冬至(とうじ)は、二十四節気の第22。十一月中(旧暦11月内)。


現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろ。恒気法は節気を冬至からの経過日数で定義するが、基点となる冬至は定気と同じ定義である。定気と恒気で一致する唯一の節気である。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは冬至日(とうじび)と呼ぶ。


期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小寒前日までである。


西洋占星術では、冬至を磨羯宮(やぎ座)の始まりとする。


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とのこと。


 


平たく言えば一年で最も昼が短かく夜が長い日で、この日を境に日毎に昼が長くなる。


 


 


サイトの冬至の項中には次のように書かれている。


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易から見た冬至 






























左は旧暦十一月(子月)に割り振られた易の卦「地雷復」。全て陰の気で覆われた十月(亥月)の後で、陽の気が仄見える様子を表した言葉です。



太陽の力は、冬至の日まで徐々に弱まって行くように見えます(日射しは弱く、日の照る時間も短くなる)。冬至は太陽の力が一番弱まった日ということになります。

しかし、力が一番弱まった日ということは、この日を境に再び力が強まる(甦る)日であるともいえます。このことから冬至は、

一陽来復の日

として尊ばれたのでした。


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ともかく今日がどん底で、これから日に日に昼が長くなってゆくという、希望に満ちた日でもある。冬至に南瓜を食べ、柚を浮かべたお風呂に入るという風習も、陰の気に満たされた時に陽の気の芽生えを願いを込めて祝うもののようだ。


 


キリスト誕生以前から冬至を祝う祭りが行われていたという。


陽気満つる春を待ち望む。そんな想い。


 


明日は今日より良くなる。


心からそう願う。


 


 


浅間大社青年会囃子同好会

 



 


浅間大社青年会による富士山頂奥宮囃子奉納


 


浅間大社青年会が昭和49年に出来て数年後、祭事係会の全面的なご協力で囃子道具が揃えられ、会員による囃子練習が始まった。



当時はまだ祭りの低迷時代で、祭りを復興させたいという気運は高まりつつあったが、長期の休止は地元囃子方の老化と散逸をもたらしていた。

山車や屋台は残っていても、お囃子がなければ引き回しは出来ない。

祭り復興のためには、お囃子の習得が第一の課題だった。

浅間大社青年会は、神社奉仕を通して地域共同体や世界平和に貢献するという理念を持ち、市内在住の氏子によって構成されている。だから会員である町内の祭りを実施している所と休止している所の青年が相互に協力することで、それが祭りの復興の大きな原動力になっていった。

浅間大社境内でのお囃子練習から囃子をおぼえ、地域で祭りが復興された町内も数多い。祭り復興を聞いて離れていた往年の囃子方が指導にあたり、地域伝統の囃子を復活させたと言う話も聞く。



浅間大社青年会の囃子練習が祭り復興のきっかけとなったこと。囃子方も次世代、次々世代と変わる内にそんなことはどうもとっくに忘れられているようだ。



忘れてけっこう。

誰だって先輩から教わったものを、淡々と次に引き継いでゆくだけのこと。教える上で見返りを求めないのは、それを引き継いで囃子を守り伝えてくれると信ずるからだ。



忘れないで欲しいのは、教えた貰ったものは必ず次代に伝えてゆくこと。逃げ出さないこと。投げ出さないこと。

簡単なようで難しいが、それだけが暗黙の約束。



それぞれの町内で守り伝えられるお囃子だが、地元の練習が始まる祭り前には他町の囃子を聴く機会はあまり無いもの。

毎月定期的に練習を行い、相互に刺激し合い互いの囃子を盗み合う。練習後歓談し、祭りへの熱い想いなど語り合う。





浅間大社青年会の囃子練習は、そんな思いと歴史を持っている。



 


我が一族のアルバム

お盆で昨日帰省した弟が、今日はもう帰るという。
あまりに慌ただしく適当な土産も間に合わない。ふと思い出したのが以前作りかけた佐野家のアルバムだ。
なかなか家に伝わる古いアルバムを分割することは出来ない。
当人が写っているからと剥がして持ってゆくこともあるが、アルバムは傷みせっかくの歴史の記録が失われてしまう。
だから分家にそれぞれ残すために、アルバムを編集しようと思い立った。
途中で止まっていた作業だが、気にいるものが出来るにはまだまだ時間がかかる。
そこで、途中経過だが小さなプリントでとりあえず渡そうと思いついた。



シーン

家族の記念写真だ。
祖父の時代、そして母が嫁ぎ、私たち兄弟が加わり、息子たちが加わった。
全部に写っている父は平成20年に他界したが、世代交代は世の常か。



年表

祖父母から私たち兄弟までの系図だ。
子供達もそれぞれいるし孫も産まれ始めているが、そこまではまだ手が回らない。




episo-do

昔から飼っていた猫たちだ。まだ他にもいたが写真が揃わない。
犬も19年生きたコロがいた。



400年表

佐野写真館の歴史の一部だ。
叔母がやっていた富士宮高等洋裁学園(略称-佐野洋裁)は文化連盟のたまり場だった。
創業100年は平成23年の誤り。




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祖父佐野芳太郎の紹介。
私が4歳の頃亡くなったので記憶はほとんど無いが、知らぬ間に同じ道を歩いているのを感じる。

祖母のこと、叔母のこと、それ以前のご先祖様のことなど、まだまだ調べ足していかなければならないが、とりあえず途中経過と言うことでハガキ大のフォルダーに入れて渡した。
資料が揃ったらある程度大きく作り、兄弟それぞれの家で保管しようと思う。

そろそろ老いを感じ始める頃だ。
自身のルーツを辿り、まとめていく。そんな作業が案外楽しい物だ。
手のかかる仕事だけに、あせらずのんびりと続けていきたいと思う。

パソコンを使い編集することは、今ではそんなに難しくはないもの。
出力と仕上げさえしっかりとしたものにすれば、一生ものの宝にできます。
一つ挑戦してはいかがでしょうか。



枯れ木に花を咲かせよう

触れただけで倒れたという銀杏は、富士山の縄状溶岩の上で深く根を下ろすことも出来ず、周囲に根を広げることもままならなかったのだろうか。


 


同じような老木の倒れたのを見たことがある。


それは浅間大社境内、天神社隣の椎の大木だった。


早朝いきなり倒れ、浅間大社境内透き塀をかすめて少し破損させたと言うが、人や車には被害が及ばなかったという。


 



これがその椎の木の根本だ。


ちぎれて小さくはなっているのだろうが、周囲に張り出すべき根張りがあまりにも小さい。


すぐ下は縄状溶岩で深く根を下ろすことは出来ないが、広く根を張り出すにはスペースが確保できなかったのだろうか。


 



この老木の枝分かれした部分には他種の若木が着床していた。


 


幹の下部には枝が朽ちたような穴があり、そこに潜ろうとするヘビの姿も見たことがある。


上部は案外しっかりしているようだが、根や幹の下部では腐朽が進んでいたのだろう。


 


この木が倒れた一月ほど後に、少し西側の老木も倒れたそうだ。


その頃は浅間大社の神職も上級職が相次いで亡くなっており、まさに世代交代を思わせるものだった。


 


芯部が腐って空洞を生じた樹が、形成層が活発化することで空洞を覆い尽くし樹勢を盛り返すという話も聞く。


 



この老いたシイの大木は以前根本に人が入れるほどの芯部の腐朽による大きな空洞があったそうだ。ある時この空洞に誰かが火をつけ、腐朽部分を伝って上部に開いた多くの穴からも火を噴き出し消火にはとても手間取ったと、以前消防署に勤めていた役員さんから聞いた。


腐った上に火事に遭い、枯れるとしか思えなかったこの木が、なんと空洞を覆い隠すほどに樹勢を回復したのだという。


 この不思議を目の当たりにした氏子達が、この木を御神木に定めたという。


 


枯れた木が幼木のベッドとなり若木を育てる。


倒木更新、切り株更新という話を屋久島で聞いてきた。


 


半分死んでも半分生きているというような状態で、そこに根付いた若木が旺盛な生命力で生長していったら、元の木と融合して一つになることもあるらしい。


 


枯れそうだからと簡単に伐採するのも考え直し、危険がないようなら生かす方策を試みたらどうなのだろう。


 



信長の首塚と言われる西山本門寺の大ヒイラギだ。


枯死が危ぶまれたが、幹から生えた枝が勢いよく育っている。


樹勢を回復してさらなる年輪を加えて貰いたい。


 


昔読んだ易の言葉に「古楊ひこばえを生ず」と言うのがある。


枯れたと思った楊(やなぎ)の根元から新たな芽が生えた。それはとても目出度いということ。


実生の若木はすべてこれから幹や葉や根を伸ばし、少しづつ成長していかなければならないが、ひこばえはしっかり踏ん張った元の木の根がある。


その成長は比べものにならない。


 


簡単に新しいものに植え替えるというのが昨今の風潮だが、人よりずっと長くその地に生きてきた木を思い、見守ってやることも一つの方法ではないだろうか。


 


 



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