へんぽらいの祭り談義

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病気

へんぽらいとは富士宮弁で変わり者のこと。ライフワークの祭りを通してふるさとの今を発信し続ける、心ある変わり者で有りたいと思います。
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葬儀参列

本日は葬儀に参列。

姉の義妹のお舅さんが亡くなったのだが、倒れてから一月あまりが経ったとの事。看病されたご家族のご苦労に、ねぎらいの言葉を贈りたい。

惜しい事でしたが、お疲れ様でした。

聞けば、私が盲腸を切った頃同じ病院に入院されていたとの事だったが、病棟も違えば接点もないか。

 

ふと思い出すのは、C型肝炎から肝癌になり最後は肺に転移して亡くなった叔母の事だ。

容態の急変は平成13年の今時分だった。

末期癌はすでに肺へ転移していた。叔母の友人が家族に言うには、ご主人の癌は肺に転移した後一月ぐらいしかもたなかったのこと。だから覚悟はしていた。

放射線治療をするかどうかを聞かれていたが、叔母の意思でしない事をその日返事したばかりだった。

 

家に帰ったら、叔母の友人から病状を問う電話があり母が応対していた。心配してくれての事だからありがたい事ではあるが、電話があまりにも長い。実はこの時、叔母の病状は急変していた。あまりにも電話が通じないために病院から向かいの接骨院に電話がかかり、奥さんが走って取り次いでくれた。いくら心配だからと言っても、こんな状況では長電話は厳に控えるべきだな。

 

病院に駈けつけると医師に聞かれた。

「脳圧が上がり、危険な状態です。

このまま置けば、当人は苦痛を感じる事なく逝けるでしょうが、どうしますか?」

その時思ったのは、何もしないで逝かせたら悔いが残るということ。

出来る事は脳圧を下げる事だけだというので、その処置をお願いした。

 

それから後も意識は戻らないままだったが、息苦しさからか酸素マスクを何度も外そうとするなど、数日間苦しむ様を見せつけられた。

病床で誕生日を迎え、深夜日が変わって間もなく息を引き取った。

 

3月初旬の浅間大社の寒桜が咲く頃の事だ。

 

後で思う事だが、「悔いが残るから」と言う家族の勝手な都合や判断で、回復の望みのない患者の苦痛をただ長引かせただけでは無かったろうか。

 

今日の葬儀帰りに姉とそんな話をして、

「おばちゃん恨んでるかな?」

と言ったら。

「恨みはしないよ。感謝しているさ。」

と言ってもらえた。

 

実は、今回の盲腸手術も同じ病院だから、入院中夢に叔母が出てきて恨み事など言われるのではと、ひそかに心配していたものだ。父もこの病院で4年前の1月に亡くなっている。この時期の入院手術に少し迷ったのもこのためだ。

幸い夢も見ずに退院できたのは、どちらも無事に成仏できたからなのだろうか。

 

今日その話をしたら、母は笑ってこう言った。

「私の時は楽に死なせてね。」

私もそうなったらそう願いたいところだが、ひそかに叔母の苦痛を長引かせた報いが私にはあるんじゃないかと思っている。

 

でもその時はその時。

なるようになるさ。

 

 

盲腸-4

点滴逆流の不安もあって、殆どを病室のベッドで過ごした。


携帯電話の使用については、電話は公衆電話の場所でかけると言うことだが、メールは病室からでも良いとのこと。要するに、声を出さなければ病室でスマホを使用しても良いと言うことらしい。
で、家内にiPadを持ってきてもらったので、退屈することもなかった。
インターネットでニュースなど見ながら、構想から遅々として進まぬ物語の肉付け、誤って初期化し上書きしてしまったデータの救出方法、そんなことを考えていた。

昨年暮れ、メモリーカードを初期化のみならず上書きまでしてしまった。保存が済んだという勘違いからだ。PC内をくまなく探し回って未保存のままの誤消去を確信したものの、大きなミスに一気に血の気のひく思いがした。消えたものは取り返せない。腹をくくってお詫びと撮り直しのお願いをして回った。
しかし大勢の家族で写った宮参りの記念撮影は、取り返しようのない貴重な”時の記憶”だ。これだけでも何とか救えないかと思った。
PCショップの広告でデータ復旧と言う文字を見た時、電話してみた。初期化した上に上書き間でしたものでも、まだ救出の可能性はあるとのこと。すがる思いでメモリーカードを持ち込んでみたが、結果はすでに保存済みの不要なJPEGデータが掘り出せただけだった。

でも待てよ?あのJPEGデータとは同時にRAWデータファイルが記録されているはず。RAWデータファイルの救出をうたう業者なら、掘り出せるかも知れない。
iPadで検索すると業者も見つかったが、ソフトも見つかった。
ソフトはダウンロードでも入手できる。よし、退院したら試してみようと決めた。

手術前に気になっていたのがその時期だ。叔母が亡くなったのが3月、父が1月。似たような時期に入院することに少なからず不安があった。
仏壇に手を合わせることも滅多にない親不孝者だ。叔母や父が文句を言いに夢に出てくるんじゃないかと思っていたが、とうとう夢も見なかった。
どうやら無事に成仏できたのかな。
 

手術後の経過は至って順調で、予定より1日早く退院できたのはなによりだ。

 

 

盲腸-3

手術は2月9日。

朝から食事はなく点滴がそれに代わる。

手術着に着替え、手術室入りは9時15分。点滴スタンドを押しながらの入室。

「昨日は眠れましたか?」と尋ねられたが、前日はすることもなく昼間からベッドでうとうとしていたので、夜はぐっすりとは行かなかったな。

麻酔を脊椎に注射する際、尻にビビッと痛みが走った。神経に障ったらしい。

麻酔が効くと触る感じはしても痛みや熱さ冷たさは感じないとのこと。 麻酔が効いたのを確かめて、やがて手術が始まった。

 

見えても気にはならないのだが、不安を抱いてもということか首のあたりに布を垂らした目隠しをされてしまった。多分見えてもそれが原因で気持ちが悪くなることもなかっただろう。できれば自分で写真を撮りたいぐらいだったのだが、言えるわけがない。でも手術灯のライトのガラスに映るのが見えていたので、じっとそれを見ていた。

「見えますか?」と聞かれたので、「ガラスに映ってるので」と返事。「大丈夫ですか?」には「大丈夫です。」と答えた。

見えるとは言っても範囲は限られるし、映りも小さい。おまけに眼鏡を外しているのでぼんやりとだ。

 

手術で内臓を引っ張られる感じが強いと思ったら急に気分が悪くなった。

「大丈夫ですか!」と看護師さんが声をかける。急に血圧が下がり、顔色が青ざめたのが判ったのだろう。

「迷走神経のショックか」男性看護師がつぶやいた。

薬剤が投与され血圧は徐々に上がってきたが、脳貧血のような低血圧の気持ち悪さは最後まで抜けなかった。

 

手術が終わってもなかなか血圧は正常値にまで上がらず、その間はやっぱり気持ちが悪かった。 その後、血圧を測りながら麻酔がどれだけ覚めたかを繰り返しテストした。 血の気が通常の状態に戻ってきたのは夕刻の事。 麻酔が覚めて歩けるようになり、血栓予防のきついストッキングをようやく脱ぐことが出来た。

まだ食事どころか水もダメ。夕食が配られるのを聴きながら、寝入ってしまった。

検温で目が覚めたのが9時。熱が37.6度あったので点滴に痛み止め(熱冷まし)が加わった。

 

退院前日の夜まで、点滴のチューブは外れることもなく常に点滴液が交換され、抗生剤も何度か点滴に加わった。 トイレに行くにも、点滴スタンドといつも一緒だった。

嫌だったのは血液の逆流だ。トイレに行って帰るとチューブの中に血液が逆流している。看護師さんに戻してもらったのだが、これが3回もおこるとトイレに出歩く気もしなくなる。よくよく考えると追加の点滴が終わる頃トイレに行くとこの逆流が起こっているのに気付いた。常時点滴されているもの一つなら出歩いても逆流は起きない。ようやく点滴とのつきあい方をおぼえたのは退院間際だった。

 

手術当日からは点滴が食事替わりで、当日はもちろん翌10日朝も食事はなく、ようやく食事が出たのは昼から。流動食ということで水のような重湯に味付けのかつおみそ、野菜スープの上澄みにオレンジジュースだけだったが、水分がとれるのは本当にありがたかった。

11日には五分粥、12日にようやく全粥になり、この日の昼食を最後に退院した。

 

辛かったのは手術当日ぐらい。

後は体調も戻り経過も良好だ。

盲腸-2

我ながらどうしてああも簡単に返事ができたのか不思議だ。

多分、内なるもう一人の自分が言わしめたのだ。そう思った。

 

虫垂炎が沈静化してから手術まで3ヶ月半ある。迷わなかったわけでは無い。

 

この間に二人の友が逝った。 一人は昨夏還暦同窓会の筆頭幹事を務めたF君で、腹部大動脈瘤の破裂だったそうだ。 数年前宮踊り撮影中にばったり会って、「体、気をつけなよ。」と気遣ってもらったのだが、その翌日に彼が脳梗塞で倒れた。そちらは幸い軽快し、昨年の二中同期の還暦同窓会で筆頭幹事を務めるほど元気だったので、訃報が信じられなかったものだ。

 

もう一人は21年間消防団で同じ釜の飯を食ったY君で、胆管癌だった。彼は5才も若い。 一昨年癌が見つかり危ぶまれたものの、さまざまな療法を試みて驚くほど元気になった。昨年の三分団新年会には元気に顔を見せてくれ、皆で復調を喜んだものだったが晩秋に癌がリンパに入ったのが判り入院。消防団時代の仲間が連れだって、市立病院に見舞ったのが暮れの事だった。

医師に余命を年内と告げられたという。がんばりで新年を迎えることが出来たが、1月8日次男の成人式の日に息を引き取った。

 

この友に加え、叔母と父もこの市立病院で亡くなっている。叔母が平成13年3月8日肝癌が肺に転移し最後は肺炎で、父が平成20年1月20日糖尿病や狭心症などいろいろ患った末、最後は尿毒症だった。桜咲く春を待てずに逝ったのはどちらも残念だったろう。験を担ぐわけでは無いがちょっと気にならぬでもない。

 

 

おまけに手術のことを聞きつけた仲人の叔母が心配して止めろという。痛まないなら切らぬ方が良いという。ごもっとも。でも、あの時内なる私は切るべきだと思ったのだ。今の日本と同じように、深い深い沈滞にずぶずぶと沈んでゆく日常にけりをつける必要を、たぶん感じたのだ。

 

こじらせての手術では無い。けろっと治り、笑いながら帰ってくるさ。

多少の不安をぬぐい去り入院の日を迎えた。

 

泣き虫囃子

まだ若い囃子仲間が亡くなったのは今年1月1日のこと。


山車に写真を飾ろうという話だったが、取り紛れて作れなかった。


 いつも通りに立ち寄ってくれと言う親父さんの言葉に甘え、祭りの一行で今年もお店に立ち寄った。


 



昔の囃子仲間で亡き友にお囃子を捧げたいと、家に山車を向け囃す。


 


本来は私が笛を吹くべきところだったが、風邪後の喘息がひどく後輩に託す。


家の前で涙をぬぐうご両親を見て、こみあげる涙をこらえながら囃していたという。


一連の写真を見ると、それぞれへんてこな顔をしているのがわかる。


 


ふと思った。


あいつはどこで、この囃子を聴いているのだろうか。


墓の中、あの世、仏壇の中?


いやいや、囃子方の後ろでこの泣き虫たちに檄を飛ばしているんじゃないかと。


 


秋めいて


庭の酔芙蓉もいよいよ終期。目立つのは花房毎落ちた軸ばかりだ。


いっそ枝を伐ってさっぱりしたらとも思うが、ちらほら開花待ちの蕾が見えると伐る気もそがれる。このまま自然にまかせれば、祭りの頃にも何輪かは咲くのだろう。苦労の塊みたいなひねた花が。


 



「イチジクにあのチョウが来てるよ」という家内の言葉に脚立を登ってみると、熟したイチジクで旧蜜していたのはアカタテハだった。あのチョウというのは庭でも繁殖し、頻繁に見かけるツマグロヒョウモンと見間違えた物だった。


一心不乱に蜜を吸い続ける姿に、思わず微笑んだ。


とりあえずのエネルギーは充分補充できるのだろうが、後翅の欠損は前途の多難を物語る。


成虫で冬を越すには、この傷みはなかなか厳しい。


 



そうそうもう一人の来訪者はクロコノマチョウだ。


ジャノメチョウ科の大型のチョウで、秋型の特徴は前翅と後翅にある突起だ。


一昨年には湧玉池の畔で、昨年は西山本門寺で見ている。


昔から居るには居たが、これも元々は暖地性の蝶でこんなに頻繁には見かけられなかった物。先輩が専門に越冬個体を追いかけていたのを思い出す。


 


いよいよ秋めいてきた。


すでに4日間は完全休養でしっかり寝て治す体勢を取ったが、体の不調はまだまだ治りそうもない。


祭り準備も佳境にはいるところなので心配だが、今までだって欠けた所やほころびはちゃんと誰かが繕ってきた。一人いなくなって出来ないような祭りだったら、それまでのこと。


 


今年起きた一連の、祭り常連の相次いでの他界や患いの連続は、今何よりも世代交代が必要だとの天の声なのかも知れない。


 


祭り本番までには完全に復調を目指すが、それまでは心配でも自重する事にする。


 


 


なりすまし?

運送会社の発送メールが届いた。代引きで焼酎が届くって?


注文の憶えがないので、なりすまし発注ではないかと電話で問い合わせた。


 


後刻運送会社の発送した支店から電話があり、発送した会社は有名どころの数ヶ月待ちの焼酎を造っている所だという。


あれ?去年もこんな事があったな。


焼酎好きの友人が一人一本という限定商品を買うのに私の名前を使ったっけ。

しかし、今回のものは聴いていない。


 


ともかく代引きで受け取っても損は無さそうだったので、そのまま送るように依頼した。


 


その後友人に電話して確認がとれた。


名前を借りると前に言ったとの事だが、1年も前では憶えていない。


危うく運送会社にも迷惑を掛ける所だった。


 


風邪は薬を飲んでいるが相変わらず。


痰は切れるようになったが、鼻水が出始めた。


16日には川越まつりの視察研修がある。


しっかり休養して治さねば。


お祭りのため休みます

連夜の夜更かしでさすがに老体が悲鳴を上げた。


咳が止まらず体がだるいので医者に行くと、連休明けの待合室は人で溢れていた。


 


待つ事1時間半、診断はやっぱり風邪。


 


祭り準備の話など少し出る。


 


我が区の住人で先生の同級生が長っ尻で、なかなか早くには帰れない。


町中の人口減少で祭りを続けるのもなかなか大変。


 



 


会計待ちでカウンターを見たら、こんな貼り紙があった。


「11月5日(金)はお祭りのため、午後休診とさせて頂きます。」


 


どうやら先生も生まれ育った町内で、お祭りに出るらしい。


5日は祭りの最終日、土日が休診なら心おきなく楽しめそうだ。


 


 


風邪かな

祭り準備で連日の夜更かしがたたり、少々体調不良。


 


先日は喉が痛んだがこちらは少し治まった。


ジャケットを羽織ると暑く、脱ぐとなんだか肌寒い。


おかしな咳が出始めたのでマスクをしたが、長引かない事を望む。


以前は笛吹きのくせに喘息状態で、本番になっても治らず咳き込みながら笛を吹いていたっけ。


 



太鼓の練習も今週から上級生対象に、山車囃子「にくずし」の練習だ。


 


旗日だから来ないと思うが、来れば練習につき合う。


幸い今日は打ち合わせもないので、早引けして早く休む事にしよう。


 


 


五十肩

家内が昨日仕事場の慰安旅行から帰ると、いきなり肩の痛みを訴えた。


今朝聞くと傷みで眠れないほどだったというので、向かいの接骨院で見てもらった。


結果は突発性の五十肩とかで、カルシウムの沈着とかなんとか聞いてきたらしい。


 


五十肩なら私も経験がある。


手を上げようとすると痛みが走り、日常生活にも支障がでる。


ある先輩にたずねたら、こんな事を言われた。


 


五十肩で医者にかかったら治るから大丈夫だと言われたが、完治には1年半かかった。


放っておいても、そのぐらい経てば自然に治る物らしいよ。


 


ということで、不便は感じながらも放っておいたら、1年半ほどで治った。


発症時期はズレたが右左どちらも五十肩になった。


 


今回の家内のはそれとは少し違うらしい。


急激に痛みが出るが、治るのも早いとのこと。


 


とりあえず病院で見て貰ってからの治療になるようで、今は腕をベルトで吊って固定している。


 


慢性化し長期化するタイプの四十・五十肩は日頃の注意や体操などである程度防げるとか。


予防に有効な体操


 


 



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